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発展を遂げた大阪・海の玄関口

江戸時代に「天下の台所」と呼ばれた大坂は、「明治維新」を経て、「三都」の一つ、「日本一の商都」に成長していく。それを勢いづけたのは、町を流れ「大阪湾」に注ぐ、川・水路だった。幕末から明治初期にかけて、「安治川」の河口付近に目印の「天保山」が設けられ、やや上流に「川口波止場」「川口居留地」が設けられた。近代的な二代目「大阪府庁」が建設されたのも、川口付近の「江之子島」だった。


江戸末期、「安治川」の浚渫でできた「天保山」 MAP __

1831(天保2)年、徳川幕府による「安治川」の浚渫工事が行われ、そのときに生じた土砂を河口に積み上げて築かれたのが「天保山」。当初は出入船の目印とするための「目標山(めじるしやま)」とも呼ばれ、松や桜の木が植えられて茶店ができ、大坂でも有名な観光地となった。「天保山」の名称は、誕生した元号に由来する。その後、1854(安政元)年に、ロシア船が現れると、徳川幕府が防衛のための砲台を設置。明治維新後は砲台が取り除かれて、石造りの燈台が設置された。【画像は明治後期】

築港工事などでその姿はなくなったが、近年「国土地理院」に「山」として認定され、標高4.53mの「日本一低い山」として話題になった。景勝地としての歴史が引き継がれ、1990(平成2)年に「天保山ハーバービバレッジ」が供用開始。世界最大級の水族館「海遊館」や総合レジャースポット「天保山マーケットプレース」などがあり、観光地として賑わっている。

明治以来、大阪の地にある「造幣局」 MAP __

明治以来、大阪に置かれ続けている「造幣局」は、政治家・実業家で、1868(明治元)年当時は外国事務局判事だった五代友厚らの尽力により、1871(明治4)年に開設された。当初は「大蔵省造幣寮」であり、1877(明治10)年に「大蔵省造幣局」に変わり、現在は「独立行政法人 造幣局」となっている。画像は1914(大正3)年の鋳造所内の様子と「造幣局」外観。【画像は1914(大正3)年】

開設当時の「造幣寮」は、約18万平方メートルという現在の2倍強の面積を持つ世界最大規模のものであった。構内には、開設当時の正門と、衛兵詰所(八角形の建物)が往時のまま残されている。

「安治川」沿いに開かれた「川口居留地」 MAP __

1868(明治元)年、「大阪湾」に注ぐ「安治川」の河口付近から約4km上流に「川口波止場」(写真)が開かれ、現在の西区川口に大阪の外国人居留地である「川口居留地」が設けられた。付近は街路樹が植えられ、ガス灯、舗装道路に沿ってバンガロー風の洋館が並ぶ新奇さに満ちた名所となり、西洋の文化を馴染ませた。しかし、川の水深が浅く港としての機能を果たし得ないため、「川口居留地」の外国商人の多くは次第に「神戸居留地」に移っていった。【画像は大正期】

1899(明治32)年に条約改正によって居留地が廃止されると、キリスト教関係者が教会を建て、ミッションスクールを開いた。このうち、1920(大正9)年に竣工した「日本聖公会川口基督教会」が現在も残り、大阪府の有形文化財に指定されている。

1874(明治7)年、「江之子島」に二代目「大阪府庁」 MAP __

1868(慶応4)年、初代の「大阪府庁」は「旧大坂西町奉行所」(現「マイドームおおさか」)に設置されたが、1874(明治7)年、現在の西区江之子島に移転し、「江之子島政府」と呼ばれた。画像の二代目「大阪府庁」は、イギリス人技師の設計した煉瓦造り、2階建て白亜の洋館で、大阪では「泉布観」に次ぐ西洋建築物だった。当時、庁舎が「川口居留地」のある「木津川」対岸の川口を向いていることについて論争があったが、大阪府知事・渡辺昇が「大阪の発展は西方にあり、大阪湾から広く海外に雄飛せねばならない」とその建設の理由を明らかにしている。1916(大正5)年には増築が行われたものの、1921(大正10)年に新庁舎建設が議決され、1926(大正15)年、中央区大手前に三代目の「大阪府庁」が誕生した。【画像は明治後期】

二代目府庁はその後、「大阪府工業奨励館」となり、1945(昭和20)年の「大阪空襲」で焼失した。跡地は現在、マンションなどが建つ住宅地となっている。


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