「堀川」は、当時海に面していた熱田と「名古屋城」を結ぶ物流の要として1610(慶長15)年に開削された。米や、塩、木材などの物資を運ぶだけでなく、人々の交通手段としても、「堀川」の舟運は重要な役割を果たした。図は江戸末期の1844(天保15)年に刊行された『尾張名所図会』に描かれた『堀川日置橋より両岸の桜を望む図』で、橋の南東から北西方向を望んでいる。「堀川」に架かる「日置橋」は「堀川」開削の頃に架けられた「堀川七橋」の一つ。「日置橋」の両岸には、江戸後期の文化年間(1804~1818年)に桃と桜が植えられ、その後、花見の名所として賑わうようになった。
1610(慶長15)年、「名古屋城」の築城が開始されるとともに、名古屋と外港「熱田湊」を結ぶ運河「堀川」も開削された。「堀川」は築城や碁盤割の城下町建設のための資材の運搬にも利用され、翌年頃より清洲から名古屋へ城下町を移転させる「清洲越し」が行われた。江戸時代以降、「堀川」は輸送路として重要な役割を果たし、「熱田湊」は陸路・運河・海路の集まる交通・物流の要衝として発展した。明治後期になると「熱田港」に代わる近代的な港湾として「名古屋港」が整備され、昭和初期には「名古屋港」と中心部を結ぶ「中川運河」も整備された。