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海軍航空基地と航空機産業の発達

横須賀に近く、波の穏やかな「東京湾」沿いのこの地域は、飛行機の基地、生産地となった歴史もある。日本初の飛行艇専用の民間飛行場「根岸飛行場」、海軍航空発祥の地「追浜(おっぱま)飛行場」があり、飛行機のまちとして知られた。また、「太平洋戦争」中には「野島」に「野島掩体壕(えんたいごう)」が設けられた。戦前からの航空機メーカー「日本飛行機」は、現在も航空機の生産を続けている。


民間の飛行艇が発着した「根岸飛行場」 MAP __

1940(昭和15)年、「大日本航空株式会社」による日本初の飛行艇専用の民間飛行場「根岸飛行場」が開場した。約2万坪の広さを誇り、当時日本の委任統治領だったサイパン経由パラオへの定期路線が開かれていた。写真はサイパンから飛行してきた「川西航空機」製の「97式飛行艇」。【画像は1940(昭和15)年】

写真に記した赤枠の位置が「根岸飛行場」。戦後は「富岡飛行場」とともに米軍に接収されたが、1953(昭和28)年から1958(昭和33)年にかけて、横浜市に返還された。【画像は1947(昭和22)年】

「根岸飛行場」の跡地のうち、北西側(赤枠内の左上)の一角、写真で丸く見える所は「横浜プールセンター」。その南側(写真では下側)をJR根岸線と「首都高速湾岸線」、「国道357号」が横切っている。さらにその南側(赤枠内の下部)は工場地帯の一部となり、製油所の貯蔵タンクなどが並んでいる。

海軍航空発祥の地「追浜飛行場」 MAP __

1912(明治45)年に「海軍航空技術研究委員会」が発足し、水上機の練習場が建設されたことで、「海軍航空発祥の地」となった追浜地域。1916(大正5)年、「横須賀海軍航空隊」が置かれ、1918(大正7)年から海岸の埋め立て工事を開始し、1926(大正15)年に「追浜飛行場」が誕生した。また、1932(昭和7)年には隣接する場所に「海軍航空廠(しょう)」も設置。多くの新鋭飛行機の開発が行われ、海軍航空発展の中心となった。写真は「太平洋戦争」終戦直後の「追浜飛行場」で、日本軍機が集められた時のもの。【画像は昭和戦後期】

「追浜飛行場」跡では、1961(昭和36)年に「日産自動車株式会社」の「追浜工場」が操業を開始している。

戦前からの航空機メーカー 「日本飛行機株式会社」 MAP __

「日本飛行機株式会社」は、1934(昭和9)年に創立された国内の航空機メーカーで、「横浜海軍航空隊」と隣接し、「赤とんぼ」と呼ばれた「93式陸上中間練習機」などを中心に海軍・陸軍用の航空機と部品を生産していた。1949(昭和24)年に「日飛モータース株式会社」として再設立され、1956(昭和31)年に「日本飛行機株式会社」に改称。1958(昭和33)年には戦後初の国産輸送機の「YS-11」の原寸模型を完成させた。「Y」は設計にあたった「輸送機設計研究協会」の「輸送」から、「S」は「設計」から、「11」は「エンジンと機体の候補案番号」からとったものであるが、この原寸模型の公開が「日本飛行機株式会社」の杉田工場で12月11日に行われたことから、『横浜(Y)杉田(S)で11日に会いましょう』という語呂合わせが完成披露のキャッチフレーズに使われた。【画像は1949(昭和24)年頃】

現在は同地にて航空機やロケットの部分品などを製造している。

「野島掩体壕」は巨大な航空機格納庫 MAP __

「野島掩体壕」は「太平洋戦争」の終戦直前、1945(昭和20)年の3月から6月にかけて海軍により建設された、戦闘機を空襲から守るための防空壕(格納庫)で、「野島山」の東西を約260mにわたり掘り進められた。しかし、実際に「野島掩体壕」が使用される機会はなかった。写真は掩体壕入口にコンクリートを打設している作業風景。【画像は1945(昭和20)年】

「野島掩体壕」は国内に現存する掩体壕の中では最大規模のもの。現在は封鎖されているが、「野島公園」内で入口部分を見ることができる。


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