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景勝地・別荘地としての磯子・金沢

明治期から昭和前期の磯子・富岡・金沢の地は、皇族・政治家・実業家などが別荘を構え、横浜の外国人も多く訪れる景勝地だった。富岡の「金波楼」、磯子の「偕楽園」をはじめ、多くの料亭旅館が立地していた。磯子にあった「東伏見邦英伯爵別邸」は、戦後「横浜プリンスホテル」の「貴賓館」となり、現在は地域開放スペースとして活用されている。


美しい外観の「東伏見邦英伯爵別邸」 MAP __

磯子の高台に、地上3階・地下1階建ての西洋風の外観とアールデコ調の内装をもつ「東伏見邦英伯爵別邸」が建てられたのは、1937(昭和12)年。1954(昭和29)年に西武グループに売却され、「横浜プリンス会館」(のちの「横浜プリンスホテル」)となり、その後に新館が建ったことで「横浜プリンスホテル」の「貴賓館」となっていた。【画像は昭和戦前期】

「横浜プリンスホテル」は2006(平成18)年に営業終了、その後、跡地一帯は大規模マンション「Brillia City 横浜磯子」として開発され2014(平成26)年に竣工、 「貴賓館」の建物は残されレストランなったのち、現在は地域開放スペースとして活用されている。

「富岡海岸」に臨む割烹旅館「金波楼」 MAP __

ヘボン式ローマ字で知られるヘボン博士が推奨したことで海水浴場として有名になった富岡の海岸には、1884(明治17)年に地元の人々が出資して、翌年日本初といわれる株式会社組織の割烹旅館「金波楼」が誕生した。木造2階建てで、海水を引いた生け簀の魚を出す料理が評判になったが、1923(大正12)年の「関東大震災」で建物が倒壊して廃業した。【画像は1921(大正10)年頃】

現在は「富岡八幡宮」の鳥居付近に「料亭 金波楼跡」の案内杭(写真右端)が建てられている。かつては海岸沿いにあったが、1971(昭和46)年に着工となった「金沢地先埋立事業」により東側一帯が埋め立てられたため、現在は一番近い海岸まででも1km以上離れている。

「金沢地先埋立事業」の際、「富岡八幡宮」の南には神事「祇園舟」の会場として砂浜もある「富岡船溜り」(現「富岡並木ふなだまり公園」)が造られた。ここが概ね旧海岸線にあたる。「祇園舟」は「富岡八幡宮」が鎌倉幕府の守護神として創建されて以来、800年以上継承されてきたといわれる伝統ある神事で、毎年7月中旬に行われており、1990(平成2)年には横浜市無形民俗文化財に指定された。
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磯子の発展のきっかけとなった明治期の埋め立てと料亭「偕楽園」

磯子と森の間にある「屛風ヶ浦」は、断崖が海に迫った地形のため、海沿いには道が造れず、断崖上の山道を通る必要があった。明治中期、土木業を営んでいた葦名金之助氏は「屛風ヶ浦」前の海の埋め立てを計画。1900(明治33)年頃に着工、段階的に埋め立てが進められ大正初期までに完成、埋立地には道路「横須賀街道」(現「国道16号」)や橋を建設した。その後「横須賀街道」沿いには料亭などが建ち並ぶようになり、夏には海水浴客でも賑わう行楽地として発展、大正期には花街も形成された。また、葦名氏は衰退を見せていた「杉田梅林」の復興にも取り組み、「妙法寺」の住職と協力してアクセス道路や園内の整備を行い、再び賑わいを見せるようになっていった。

1907(明治40)年、葦名氏は磯子の埋立地に、自ら料亭「偕楽園」を創業、広い敷地に多くの従業員を抱え、磯子を代表する店舗として発展した(経営者は会社化などにより代わっていった)。写真は大正期の「偕楽園」内の海岸運動場。敷地内には海水浴場も備えていた。1923(大正12)年に発生した「関東大震災」で被災するも、その後は横須賀・富岡にあった海軍施設の関係者が利用する海軍士官の指定料亭としても賑わいを見せた。
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「偕楽園」の跡地には、1972(昭和47)年に「日本住宅公団」(現「UR都市機構」)の「磯子三丁目団地」(写真左手)が完成した。写真右奥は「森浅間神社」がある「我沙羅(がさら)山」。

「偕楽園」は「太平洋戦争」後の一時期は米軍の接収も受けた。その後も、営業を続けていたが、周辺の海の埋め立てなどに伴い1968(昭和43)年に廃業した。写真は1962(昭和37)年頃、「偕楽園」前の海が埋め立てられている様子。【画像は1962(昭和37)年頃】

写真は「偕楽園」跡地となる「磯子三丁目団地」(右奥)を、西側の高台から撮影したもの。左の茶色の建物は「磯子区役所」。建物の影となって見えないが、この先に広がる埋め立て地には、大規模な工場が多く立地し、さらにその先に「根岸湾」がある。

1913(大正2)年、葦名氏はその姓にちなむ「芦名橋」を「芦名川」に架橋した。現在「芦名川」は暗渠となっており、「芦名橋公園」「芦名橋交差点」「芦名橋停留所」などにその名を残しているほか、公園前には暗橋(暗渠に残る橋)の欄干も残されている。
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今も風格が漂う数々の別邸

「野島公園」内に残る「旧伊藤博文金沢別邸」

「野島公園」内に残る「旧伊藤博文金沢別邸」。 MAP __

磯子・金沢の海岸沿いは古くより風光明媚な場所として知られ、明治時代以降は皇族・政治家・実業家などが別邸を構える別荘地となった。その代表的な建築物として、「野島」に「旧伊藤博文金沢別邸」、磯子に「旧東伏見邦英伯爵別邸」、根岸に「旧柳下邸」が残され、現在も見ることができる。

このうち、最も早い時期に建てられたのが初代内閣総理大臣を務めた伊藤博文氏の「金沢別邸」。海外視察を経て日本に戻った後、1887(明治20)年から翌年にかけて、「野島」の南、「夏島」に滞在した。その間に伊東巳代治(みよじ)氏らとともに憲法の原型である「夏島草案」を作成し、のちの「大日本帝国憲法」へと繋がった。伊藤氏はその後の1898(明治31)年に「野島」に「金沢別邸」を建造した。この別邸は伊藤氏の没後は子孫に伝えられ、1942(昭和17)年に「株式会社日産」に売却、1959(昭和34)年には横浜市の所有となり、現在は「野島公園」内の「旧伊藤博文金沢別邸」として公開されている。


「根岸なつかし公園」内で公開されている「旧柳下邸」

「根岸なつかし公園」内で公開されている「旧柳下邸」。 MAP __

JR「根岸駅」に近い磯子区下町に残る「旧柳下邸」は、大正中期に建てられた洋館と和館が一体となった瀟洒な邸宅。柳下家は横浜で有数の銅鉄引取商であった。1923(大正12)年の「関東大震災」で一部が倒壊したものの、大部分は損壊を免れ、1996(平成8)年に横浜市の所有となった。2002(平成14)年に「横浜市指定有形文化財」となり、「根岸なつかし公園」内で公開されている。


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