「赤坂氷川神社」は951(天暦5)年に現在の「赤坂不動尊」のあたりに祀られたことが創始といわれる。紀州徳川家の中屋敷の産土神であったことから徳川吉宗が崇敬し、八代将軍となったのち現在地に社殿の造営を命じ、1730(享保15)年に遷座となった。図は江戸末期に『江戸名所図会』に描かれた「赤坂氷川社」(現「赤坂氷川神社」)。
麻布・赤坂は、「武蔵野台地」の東端に位置し、台地を樹枝状に開析した谷が多数発達した起伏の多い土地となっており、舌状に延びる台地はそれぞれ「赤坂台地」「青山台地」「麻布台地」などとも呼ばれる。江戸時代になると、台地上には多くの大名の屋敷が置かれた。青山の地名は江戸前期に「関東総奉行」も務めた大名、青山忠成が拝領し屋敷を構えたことに由来する。台地と谷地・低地の間には多くの坂もあり、現在も「紀伊国坂」「薬園坂」など、江戸期からの歴史を伝える坂名も多数残る。大名屋敷は面積が大きい土地で、明治期になると御用地や陸軍用地、実業家の邸宅地などとして利用され、これらのまとまった土地は、現在も「東京ミッドタウン」「赤坂サカス」などの大規模複合施設や「国立新美術館」「青山霊園」「有栖川宮記念公園」などの公共的な施設に活用されている。一方、谷地や低地には町人地が置かれ、商業も発展、現在の赤坂、麻布十番などの賑わいにつながっている。ここでは、麻布・赤坂の歴史の中から、主に江戸時代から昭和初期までの街の発展を中心に紹介する。