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田園調布の開発

田園調布は1923(大正12)年に分譲が開始された住宅地。駅を中心に放射状と同心円状の道路が計画的に配置されており、日本有数の高級住宅街へ発展した。シンボルとして長年愛されてきた「田園調布駅」は改良工事により1990(平成2)年に解体されたが、2000(平成12)年に復元されている。当初から村を跨ぐ形で開発されたため、現在の住所は、南側が大田区田園調布、北側は世田谷区玉川田園調布となっている。



「日本型田園都市」の誕生

「田園都市株式会社」の本社

「田園都市株式会社」の本社は、1923(大正12)年に「洗足田園都市」の分譲地内の「洗足駅」前に移転した。写真は昭和初期、「目黒蒲田電鉄 田園都市部」となった1928(昭和3)年頃のもの。「田園都市株式会社」は現在の「東急電鉄」のルーツとなる企業の一つ。
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19世紀末、イギリスのハワードは、産業革命以降の都市労働者の労働・居住環境改善のため、都市および農村の魅力を併せもつ理想都市「田園都市」の建設を提唱。1903年にロンドンの郊外、レッチワースに初の「田園都市」の建設が始まった。

実業家・渋沢栄一氏らは、この「田園都市論」をベースに、「日本型田園都市」の建設を目指し1918(大正7)年に「田園都市株式会社」を設立。翌年、息子の渋沢秀雄氏(のちに同社取締役となる)が、レッチワースなど欧米の「田園都市」を視察、理念やデザインを学び、計画に取り入れた。

「田園都市株式会社」は洗足、多摩川台、大岡山(のちの「東京工業大学」の校地)の3地区で事業用地の買収を行い、1922(大正11)年に「洗足田園都市」、翌1923(大正12)年に「多摩川台住宅地(田園調布住宅地)」の分譲を開始。この年に発生した「関東大震災」により、郊外の住宅地はさらに注目されるようになった。

1922(大正11)年、「田園都市株式会社」は鉄道部門を分離し「目黒蒲田電鉄」を設立。その後、1928(昭和3)年に「田園都市株式会社」は「目黒蒲田電鉄」の一部門として再編され、「目黒蒲田電鉄 田園都市部(のちに田園都市課)」となった。「目黒蒲田電鉄」は姉妹会社の「東京横浜電鉄」との共同開発も行い、両社は1939(昭和14)年に統合、現在は「東急電鉄」となっている。


田園調布の街並み

現在、高級住宅地として知られる田園調布は、「多摩川台住宅地」として1923(大正12)年から分譲された。写真は1934(昭和9)年頃の空撮。【画像は1934(昭和9)年頃】

写真は「田園調布駅」の西口駅前から延びる3本の放射状道路で、1942(昭和17)年の撮影。【画像は1942(昭和17)年】

写真は現在の様子。 MAP __

3本の放射状道路はイチョウ並木となっている。写真は1959(昭和34)年の撮影で正面が「田園調布駅」。【画像は1959(昭和34)年】

写真は現在の様子。 MAP __

田園調布のシンボル「田園調布駅」 MAP __

「東急電鉄」の前身である「目黒蒲田電鉄」は1923(大正12)年に目黒~丸子(現・沼部)間を開業、「調布駅」を開設した。駅名は当時の村名、調布村から採られた。同年「田園都市」の理念により開発された住宅地の分譲が開始となり、1926(大正15)年に「田園調布駅」へ改称となった。写真は1928(昭和3)年頃の駅舎で、「マンサード・ルーフ」が特徴の欧州中世紀の民家がモデルといわれる。設計は当時「田園都市株式会社」の建築設計家であった矢部金太郎氏といわれる。矢部氏は「田園調布地区」の設計や、「田園調布住宅地」内の渋沢秀雄邸をはじめとする邸宅の設計、「多摩川園」の園内デザインなどにも携わっている。この駅舎は67年間にわたり街のシンボルとして親しまれてきたが、1990(平成2)年、「田園調布駅改良工事」に伴い解体された。【画像は1928(昭和3)年頃】

解体時、地元からの強い要望と、「東急電鉄」の歴史的にも重要な駅舎であることから復元されることになり、改良工事完成後の2000(平成12)年に復元工事が竣工した。現在は駅舎としての機能は持っていない。

「多摩川台住宅地(田園調布住宅地)」の地図

図は1937(昭和12)年から1939(昭和14)年の間に作られたと考えられる「多摩川台住宅地(田園調布住宅地)」の地図。ピンク色の区画が「譲渡済」とあり、概ね分譲は終わっていることがわかる。「田園調布駅」駅前の東(地図では下)に延びる道路沿いなどに見られる小さい区画は「商店地」として分譲されている。

「多摩川台住宅地」は調布村と玉川村に跨って開発された。地図には表記されていないが、大部分が旧・調布村(のち東調布町)、北側の一部(地図では右側)が旧・玉川村で、1932(昭和7)年に東京市に編入されて以降は、それぞれ大森区(現・大田区)田園調布、世田谷区玉川田園調布となった。【図は1937(昭和12)年から1939(昭和14)年】


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