図は絵師・松井天山によって描かれた『千葉県市川町鳥瞰』を加工し、施設名などを記したもの。松井天山は1927(昭和2)年から1938(昭和13)年までの12年間で千葉県内27市町、29枚の鳥瞰図を描いており、市川町の鳥瞰図は1928(昭和3)年に制作された。図からは昭和初期の景観や人々の生活の様子が窺える。
1885(明治18)年に「陸軍教導団」が置かれた国府台は、終戦までの間『軍隊の町』として発展した。図でも「野戦重砲第七連隊」が大きく描かれるなど、重要性が窺える。「江戸川」に寄り添うように走る「松戸街道」沿いには多くの商店などが立ち並んでいるが、軍隊相手の商売を営む店も多かったという。
図左を流れる「江戸川」沿いに注目すると、東京から銚子方面へと航行する蒸気船の発着所である「東京通船銚子汽船扱所」の桟橋も描かれている。江戸時代から流通を支える重要な役割を果たしてきた「江戸川」の舟運は、1894(明治27)年に総武鉄道(現・JR総武本線)、1914(大正3)年に京成電気軌道(現・京成本線)がすでに開通しているなかでも、沿岸町村の貨客輸送の一端を担っていたのである。
鉄道路線開通後、市川市域で本格的に市街地開発が始まったのは1938(昭和13)年以降のこと。しかしながら、両沿線間にある、江戸時代から宿場町として栄えた「千葉街道」の沿道には建物が多く、この時代も賑わいがあった様子がわかる。
かつて「市川真間駅」は、駅北部に創業者である本多貞次郎の邸宅があるなど、「京成電気軌道」の中枢ともいえる場所だった。直営の遊園地「東華園」など「京成電気軌道株式会社」の主要な施設が多く配置されたことにより、市街地開発が本格化される以前から地域に賑わいを生み出して、人口増加の要因となっていた。