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震災と戦災と復興

本所区は、「関東大震災」では市内で最も多くの死者が出たほか、区域の約95%を焼失するなど、大きな被害を受けた。震災復興では多くの橋梁、道路、学校、大小の公園などが整備された。1932(昭和7)年には寺島町、隅田町、吾嬬町が東京市に編入され、向島区が誕生。「太平洋戦争」中の空襲で本所区は区域の約96%が再び焦土となったほか、向島区も区域の約57%を焼失した。戦後の1947(昭和22)年、本所区と向島区は合併して墨田区となり、戦災からの復興を成し遂げ、さらに発展し現在に至っている。


「陸軍被服本廠」と「関東大震災」

両国には、江戸中期の1734(享保19)年、約145,000㎡(「東京ドーム」3個分以上)の広大な敷地に、幕府の御米蔵「本所御蔵」が置かれた。「本所御蔵」は1872(明治5)年に廃止され、跡地には1890(明治23)年、「陸軍被服廠」(陸軍の衣類を取り扱う施設)が置かれた。1908(明治41)年、「陸軍被服本廠」(写真)へ改組・改称、1919(大正8)年に王子区(現・北区)赤羽台へ移転した。跡地は1922(大正11)年に「逓信省」と東京市に払い下げられ、学校などが整備される予定地となっており、翌年には「横網町公園」の建設も始まった。【画像は1908(明治41)年】

1923(大正12)年、「関東大震災」が発生すると、「陸軍被服本廠」跡地の「横網町公園」の建設地などの広大な空地に、4万人ともいわれる住民が避難してきた。地震発生から4時間ほど後の16時頃、火災旋風(広範囲の火災により発生する炎を伴う竜巻)に襲われ、敷地内だけで約3万8千人が焼死するという大惨事となった。震災での死亡者は、東京市全体で約6万人(うち本所区で約5万人)であり、市内の死亡者のうちの半数以上がここで亡くなっている。遺骸は現場で火葬され、その遺骨の山(写真)は3mにもなったという。【画像は1923(大正12)年】

「陸軍被服本廠」の跡地は、現在は「横網町公園」のほか、「NTTドコモ墨田ビル」(写真左の高層ビル)、「墨田区立両国中学校」(写真左下の学校)、「日本大学第一中学・高等学校」(写真中央の学校)、「第一ホテル両国」(写真中央奥)、「江戸東京博物館」の一部(写真の撮影場所)などになっている。
MAP __(NTTドコモ墨田ビル)

写真は震災後に販売され広く流通した絵葉書。「陸軍被服本廠」跡地に避難してきた住民の惨劇直前の様子とされているが、実際は震災後「宮城前広場」へ避難した群集の写真に、火煙を合成し捏造されたものであると判明している。【画像は1923(大正12)年作成】

「震災記念堂」から「東京都慰霊堂」へ MAP __

1930(昭和5)年、「横網町公園」が開園し、公園内に「関東大震災」での身元不明者の遺骨を納め、犠牲者を慰霊するための施設、「震災記念堂」(設計は伊東忠太)が完成した。【画像は昭和戦前期】

戦時中、東京は「東京大空襲」などで再び焦土となり、多くの犠牲者が出た。戦後の1948(昭和23)年、「東京大空襲」での身元不明者の遺骨も改葬して納めることになり、1951(昭和26)年に「東京都慰霊堂」と改称された。

米国民の寄付から誕生した「同愛記念病院」 MAP __

「安田財閥」の創設者・安田善次郎は1879(明治12)年、横網町にあった江戸期の田安徳川家の屋敷を購入、賓客を招くための別邸とし「深秀園」と名付けた。この「深秀園」の南、現在の「旧安田庭園」を本邸としてからも安田家の所有であった。「関東大震災」後、「米国赤十字社」が中心となり、日本のため多くの義援金や物資を集め日本政府に送った。翌年、日本政府は、この米国民の同情と友愛の心を記念する病院を建設することを決定、義援金の一部を用いて財団法人を設立した。建設地は、最大の被害地であった「陸軍被服本廠」跡に隣接する「深秀園」の敷地が選定された。二代目・安田善次郎は、土地の売却要請を受け譲渡することとし、さらにその代価の一部を建設費用として寄付。こうして1929(昭和4)年、「同愛記念病院」が開院となった。写真は昭和戦前期の「同愛記念病院」(奥に見える数棟の建物)で、その右のドームの建物は「本所公会堂」。【画像は昭和戦前期】

病院は、戦後「GHQ」に接収されたのち、1955(昭和30)年に解除。翌年に改めて「同愛記念病院」が開院した。手前の橋は震災復興橋梁として「東京市」が建設し、1927(昭和2)年に竣工した「蔵前橋」。

「震災復興三大公園」として整備された「錦糸公園」と「隅田公園」

東京市は、1923(大正12)年の「関東大震災」で大きな被害を受けたことから、その震災復興事業の中で防災都市を目指すこととなり、公園や道路の整備が進められた。本所区内には「錦糸公園」が「震災復興三大公園」の一つとして、「内務省 復興局」により建設された。この場所は、震災前は「陸軍第一師団兵器支廠錦糸堀倉庫」であった。1928(昭和3)年に開園、同年中に東京市に移管された。当初、公園の中央部には大芝生が設けられていたが、1932(昭和7)年に野球場を兼ねた運動場が建設され、その翌年にはプールも設けられるなど、スポーツ公園として整備されていった。写真は昭和戦前期の「錦糸公園」の一角、南西側に整備されていた「少年遊戯場」。
MAP __【画像は昭和戦前期】

1965(昭和40)年に東京都から墨田区へ移管され、1967(昭和42)年には園内の南東部に「墨田区体育館」が開館、2010(平成22)年に建て替えられ、現在は園内の北東部に「墨田区総合体育館」がある。写真は現在の様子で、右手がかつて「少年遊戯場」があった場所。左奥の大きい建物が「墨田区総合体育館」。

「隅田川」両岸、本所区と浅草区(現・台東区)には「震災復興三大公園」の一つとして「隅田公園」が整備され、1931(昭和6)年に開園した。(「震災復興三大公園」は、このほかに日本橋区(現・中央区)の「浜町公園」がある)。写真は「隅田川」の上流方面を撮影している。
MAP __【画像は昭和戦前期】

写真は現在の様子。奥に見える橋は、震災復興橋梁として1928(昭和3)年に架橋された「言問橋」。

震災後に開場した「江東市場」 MAP __(江東市場跡地)

1923(大正12)年の「関東大震災」時、東京市内では多くの青果市場が焼失となった。同年東京市は、「両国橋駅」の北側、「陸軍被服本廠」跡地の一部に、応急施設として「臨時江東青物市場」を設置し営業を開始。日本橋浜町、本所一ツ目、本所四ツ目、本所瓦町、本所竹町の近隣5つの青物市場を統合するものであった。1927(昭和2)年、「江東青物市場」隣接地に近代的な設備を持つ「東京市市設江東青果市場」(写真)が完成し移転した。写真は東側から望んでおり、左手に鉄道貨物のホームと、「隅田川」へつながる舟入堀がある。右端に少し見えている建物は、1924(大正13)年にこの地へ移転してきた「日本大学中学校」(現「日本大学第一中学校・高等学校」)、その左隣が1925(大正14)年に完成した「本所高等小学校」の校舎。【画像は昭和初期】

「江東青果市場」は、1935(昭和10)年、築地に「東京市中央卸売市場」が開場すると、その「江東分場」となった。1962(昭和37)年に「東京都中央卸売市場江東市場」へ改称となり、1984(昭和59)年、「葛西市場」の開設に伴い廃止された。東京都は跡地に「江戸東京博物館」を計画し、1988(昭和63)年には隣接地の「両国駅」貨物ヤード跡地の一部を国鉄よりを取得。1989(平成元)年、菊竹清訓氏設計による「江戸東京博物館」(写真)が着工となり、1993(平成5)年に開館した。かつて「本所高等小学校」があった場所は「墨田区立両国中学校」となっている。

「東京大空襲」で大きな被害を受けた本所区・向島区

工業地として発達していた本所区・向島区(現・墨田区)。戦時中の「東京大空襲」では、本所区の約96%、向島区の約57%となる区域を焼失した。両区での死傷者は6万人以上、罹災者は約30万人にのぼる。

図は「東京大空襲」など戦災での焼失区域を示した『戦災焼失区域表示 帝都近傍図』の墨田区域部分。1947(昭和22)年発行の版で、同年、本所区と向島区が合併し墨田区が誕生しており、この地図にも墨田区と記載されている。黄色い着色が焼失区域、緑色の部分が建物疎開区域となる。戦後、墨田区は工業地としても復興を遂げ、1953(昭和28)年には戦前期を上回る工場数となった。【図は1947(昭和22)年】

墨田区における露店の整理

戦後、東京の街の大通り沿いなどに露店(ヤミ市)が多く立ち並び、復興期の住民の生活を支える存在となった。墨田区内では、錦糸堀や吾妻橋一丁目の電停周辺に見られた。復興が進むと、都内各所にできていた露店は、秩序の悪化や道路の占拠など、その弊害が指摘されるようになり、1949(昭和24)年、「GHQ」は交通・防災・衛生・美観上の理由から都内の公道の露店を撤去するよう指示、翌年、「東京都建設局」内に「臨時露店対策部」が設置され、「露店整理」が進められた。

東京都は「露店整理」後も店を続けたいと希望する業者に対して、資金融資の斡旋などの対策をとり、特に、協同組合を結成し共同店舗を建設する場合は、建設資金融資のほか、都有地の提供も行った。錦糸町周辺では、都電の「錦糸堀車庫」裏の敷地が提供され、長屋の共同店舗が建設された。
MAP __【画像は1952(昭和27)年頃】

共同店舗は建て替えられ、「ニュー錦糸町ビル」(写真中央のビル)となった。一階部分は店舗のままだが、上部は共同住宅になっている。中には、建設当時と同じ屋号で営業を続ける店舗もある。このあたりの都電は1972(昭和47)年に廃止、「錦糸堀車庫」は、しばらく都営バスの車庫として使用されたのち、1983(昭和58)年に「丸井 錦糸町店」(「ニュー錦糸町ビル」の背後の建物)が開店、現在に至る。



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