このまちアーカイブス INDEX

高度経済成長期の銀座

日本の高度経済成長は、1955(昭和30)年の「神武(じんむ)景気」に始まり、1973(昭和48)年の「オイルショック」まで続いた。1953(昭和28)年頃から、銀座のビルの屋上には大型のネオンの広告が設置されるようになり、夜の街を彩るようになった。戦前期から日本一であった銀座の地価はますます高騰し、固定資産税・相続税などの負担も大きくなり、商店主など土地の所有者は、高度利用のためビルへ建替えたほか、周辺の土地の所有者と、共同建築のビルも多数建設された。また、大企業を相手に、土地を貸したり、売却することも多くなり、日本・世界の一流メーカーのショールームや、有名小売店のフラッグシップショップなども多数見られるようになった。


高度経済成長期の「銀座通り」 MAP __(鳩居堂)

写真は昭和30年代の「銀座通り」。「鳩居堂」(左下の茶色のビル)の上に見える「ナショナル」の星形のネオンサインは1954(昭和29)年に作られたもので、昭和30年代末頃まであった。この「鳩居堂」のビルは「関東大震災」後の1924(大正13)年に建設されたもの。「三愛ドリームセンター」はまだ建設されていない。【画像は昭和30年代】

写真は現在の「銀座通り」。中央付近の茶色のビルが「鳩居堂」。「鳩居堂」は、江戸前期の1663(寛文3)年、熊谷直実の末裔が京都の寺町で薬種商として創業した老舗で、1700年代には香を、江戸後期には筆や墨も製造販売するように。1880(明治13)年、宮中の御用を勤めるため、尾張町(現在の銀座五丁目)に出店し、現在に至っている。現在の「鳩居堂」のビルは1982(昭和57)年頃に建替えられたもの。

「東京高速道路」と「西銀座デパート」 MAP __(NISHIGINZA)

「東京高速道路」は銀座の戦後の復興と、自動車交通量の緩和を目的として計画された、高架の自動車道。会社は1951(昭和26)年に設立され、1959(昭和34)年に開通した。写真は開通の前年、1958(昭和33)年の撮影。「外堀」「汐留川」「京橋川」を埋め立ててビルを建て、その上を道路としており、家賃収入で建設費・維持費が賄われているため無料で通行できる。【画像は1958(昭和33)年】

現在、「東京高速道路」は「KK線」「会社線」とも呼ばれ、「首都高速道路」のネットワークの一部として一体的に利用されているが、老朽化や大型車の通行に対応するため、「首都高速道路」の地下新ルート建設が計画されており、これに伴い2030年代以降に「東京高速道路」を廃止し、高架上を歩行者の通行空間「Tokyo Sky Corridor」として再整備する予定となっている。

「東京高速道路」の下は商業ビルなどになっており、写真の区間は「西銀座デパート」として1958(昭和33)年に開業している。「西銀座デパート」の南側の高架下には「数寄屋橋ショッピングセンター」(1957(昭和32)年開業、現「銀座ファイブ」)、「新橋センター」(1961(昭和36)年開業、現「銀座ナイン」)が、北側の高架下には「有楽フードセンター」(1957(昭和32)年開業、現「銀座インズ」)といった商業施設も同時期に誕生している。【画像は1958(昭和33)年】

写真は現在の様子。「西銀座デパート」は2008(平成20)年に「NISHIGINZA」へ改称している。


銀座の建物の高さ

「服部時計店」

「服部時計店」(現「和光」)は1932(昭和7)年の竣工ではあるが、1920(大正9)年の着工のため、高さは100尺(約30.3m)、7階建てで建設されており、時計塔を含めると39.39mとなる。その右奥が「教文館ビル」。

戦前期の建築は1920(大正9)年の「市街地建築物法施行令」により高さ100尺(約30.3m)以下(住居地域外の場合、屋上突出物を除く)とされ、「関東大震災」からの復興期の1931(昭和6)年、メートル法による31m以下へ変更された。一般に、100尺、あるいは31mを上限として建設されるビルは7~10階建てとなる。戦前、この制限の下、建設され現在も銀座に残るビルは「服部時計店」(現「和光」)、「教文館ビル」などがある。

1951(昭和26)年頃の「日本楽器(ヤマハ)銀座ビル」

写真は、銀座の戦後の大型ビルとしては初期の建設となる、1951(昭和26)年竣工の「日本楽器(ヤマハ)銀座ビル」。このビルは建替えられ、2010(平成22)年に新しい「ヤマハ銀座ビル」が開業している。
MAP __

戦後は「建築基準法」により、引き続き高さ31m以下の制限が設けられた。銀座においては、1951(昭和26)年竣工の「日本楽器(ヤマハ)銀座ビル」、1957(昭和32)年竣工の「小松ストア」、1962(昭和37)年竣工の「資生堂会館」(のちの「資生堂パーラービル」)、1963(昭和38)年竣工の「三愛ドリームセンター」など、話題となったビルが多数建設されたが、もちろん全て高さ31m以下(屋上エ作物を除く)で建設されている。

1963(昭和38)年、「建築基準法」が改正され「容積地区制度」が導入となり、銀座は31mの絶対高さ制限から、容積率による高さ制限へ変更となった。「容積地区制度」導入前の銀座のビルは、敷地いっぱいに建てられていたほか、地下階を利用していたビルもあり、改正後にビルを建替える際は、容積率の関係で、延べ床面積を小さくしなければならなく、既存のビルの建替えは進まなくなった。以降、ほかの市街地と比べ高層化は進まず、高さ30m前後(看板などを入れると40~50m前後)のビルが立ち並ぶ街並みが維持された。

「GINZA SIX」

2017(平成29)年に「松坂屋 銀座店」跡地に竣工した「GINZA SIX」は高さ56mで建設されているほか、旧来のビルの高さである31mまでが商業施設として設計されている。
MAP __

1998(平成10)年、国の規制緩和策の一環で容積率の割り増しが認められるようになったことから、銀座の賑わいと風格を維持するため、地区計画「銀座ルール」が定められ、高さの制限については、「銀座通り」などの大通り沿いでは56mまでとなった。「資生堂パーラービル」の建替えで、2000(平成12)年に竣工した「東京銀座資生堂ビル」は、この「銀座ルール」の適用第一号となった。その後、2002(平成14)年に「都市再生特別措置法」が制定されると、銀座にも大規模開発プロジェクトが計画されるようになったため、2006(平成18)年、「銀座ルール」を改訂し、大規模開発に対する除外規定を削除、また、屋上工作物を設ける場合は建物の高さ制限に10mを加えたものとなった。現在は、この制限の範囲内で再開発が進められ、多くのビルが建替えられている。


「銀座四丁目交差点」付近のネオンサイン MAP __(三愛ドリームセンター)

写真は1967(昭和42)年頃撮影の「銀座四丁目交差点」付近のネオンサイン。中央の特徴的な円筒形の「三愛ドリームセンター」は1963(昭和38)年の開業。右奥に見える地球儀は「森永ミルクキャラメル」のネオンサイン。1953(昭和28)年、「不二越ビル」に設置されたもので、長年銀座のシンボルであった。【画像は1967(昭和42)年頃】

「三愛ドリームセンター」は、「建築基準法」改正直前の1963(昭和38)年、高さ31mで建設された。上部には17mの巨大な広告塔を持っており、現在も「銀座四丁目交差点」のランドマークとなっている。「森永ミルクキャラメル」のネオンサインは1983(昭和58)年に解体され、現在この場所は「アルマーニ銀座タワー」となっている。

「銀座通り」の歩行者天国 MAP __(銀座七丁目交差点)

日本において、大規模な歩行者天国は1970(昭和45)年頃から始まったといわれる。当時、「交通戦争」とも呼ばれた交通事故の多発や、交通渋滞、大気汚染など、自動車の急増による社会問題も歩行者天国が誕生する背景にあった。都内では1970(昭和45)年8月に銀座・新宿・池袋・浅草の4地区で実施されたのが最初で、この日の銀座の人出は23万人、普段の日曜日の10倍もの賑わいだったという。写真は1972(昭和47)年の「銀座通り」の歩行者天国の様子で、「銀座七丁目交差点」付近から「銀座四丁目交差点」方面を撮影している。【画像は1972(昭和47)年】

現在の「銀座七丁目交差点」付近。「銀座通り」の歩行者天国は、土・日曜日・祝日の正午から夏期は18時まで、冬期は17時まで実施されている。



MAP

この地図を大きく表示



トップへ戻る