1874(明治7)年、「銀座通り」には、欧米のような街並みを目指し四辻に松・楓・桜が植樹された。しかし水分の多い土質のため枯れてしまい、湿地で育つ柳に植えかえられ、1884(明治17)年には、銀座の街路樹はほとんど柳となった。
昭和10年代の銀座の柳のある街並み。撮影場所は現在の「イグジットメルサ」付近で「銀座四丁目交差点」方面を撮影。
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大正期には道路拡幅のための伐採や震災による焼失に遭い、「銀座の柳」は壊滅状態になった。1929(昭和4)年に発表された歌謡曲『東京行進曲』(西條八十(やそ)作詞、中山晋平作曲)の歌詞の冒頭には『昔恋しい銀座の柳』とあり、昭和初期に「銀座の柳」は過去の思い出であったことが描かれている。
この『東京行進曲』が大ヒットとなったことで、「銀座の柳」復活への機運が高まった。「朝日新聞社」の寄贈などにより約300本の柳の植樹が行われることとなり、「朝日新聞社」主催で1932(昭和7)年2月16日に銀座四丁目の「三越百貨店」前で植樹式が行われた。さらに同年3月27日には有楽町の「朝日新聞社」の講堂で「銀座柳復活祭」が開かれ、その中で『東京行進曲』のほか、西條と中山のコンビにより同日発売となった新曲『銀座の柳』も披露された。『銀座の柳』の歌詞の冒頭には『植えてうれしい銀座の柳』とあり、柳の植樹が描かれている。
戦時中に「東京大空襲」で多くを焼失するも、戦後に再び植樹され、1951(昭和26)年には「柳まつり」が復活。しかし、1968(昭和43)年に「銀座通り」の整備のため、203本の柳が日野にある「建設省街路樹苗圃」へ移植された。
写真は「御門通り」に植えられている「銀座の柳 四世」。
1984(昭和59)年の新聞記事で、移植された苗圃に「銀座の柳」が3本しか残っていないことが報じられ、銀座の住民により復活活動が開始された。すでに再移植は難しい状態であったため、枝を50本貰い150本に切り分け挿し木し、うち86本を根付かせることに成功。1985(昭和60)年にそのうちの3本を「二世柳」として「御門通り」に植樹、以降、学校や全国各地に植樹が行われ、現在では「三世柳」「四世柳」も育成されている。