このまちアーカイブス INDEX

郊外の賑わいと都市化

江戸期は深川までが江戸のうちであったが、その隣接地域、のちの城東区(明治期の亀戸村・大島村・砂村、のちにそれぞれ町に昇格)の寺社なども、江戸町民の行楽地として賑わった。明治期以降は東京の拡大とともに工業地としても発展、大正期には、路面電車も建設されるなど、都市化が進み、震災後の1932(昭和7)年に東京市へ編入、城東区となり、戦後の1947(昭和22)年、深川区域と合わせて江東区となった。


「亀島」に「香取大神」を祀ったことに始まる「亀戸香取神社」 MAP __

亀戸は古くは小さな島で、島の形が亀に似ているため「亀島」「亀津島」とも呼ばれていたという。「亀戸香取神社」は、1371(応安4)年に社殿が創建されたといわれる古社。665(天智天皇4)年、藤原鎌足が東国下向の時、「亀島」に立ち寄り「香取大神」を祀ったことが始まりという伝承もある。亀戸村の鎮守として住民の崇敬を集めてきた。図は江戸後期、『江戸名所図会』に描かれた亀戸の「香取大神宮」。【図は江戸後期】

江戸期の社殿は「東京大空襲」で焼失、1948(昭和23)年に再建、さらに1988(昭和63)年に建て替えられ、現在の社殿となった。

九州の「太宰府天満宮」を模して造営された「亀戸天神社」 MAP __

「亀戸天神社」は1646(正保3)年、菅原道真の末裔・菅原信祐が神のお告げにより天神像を刻んだことに始まる。四代将軍・徳川家綱から、当時「明暦の大火」以降の江戸の拡大のため開発中だった亀戸の地の寄進を受け、1663(寛文3)年、九州の「太宰府天満宮」を模した境内が造営され、名称も倣って「東宰府天満宮」「亀戸宰府天満宮」と称された。1873(明治6)年に「亀戸神社」に改称となるが、一般には「亀戸天満宮」「亀戸天神社」などと呼ばれた。写真は明治後期の様子で、楼門、心字池、太鼓橋などが「太宰府天満宮」と同様に配置されている。【画像は明治後期】

1936(昭和11)年、「亀戸天神社」が正式名となった。1945(昭和20)年の空襲で境内はほぼ焼失。本殿は1979(昭和54)年に再建されたが、明治後期の写真で威容を誇っていた楼門は再建されていない。新・旧写真とも、太鼓橋上からの撮影となる。

「城東電車」の砂町線・洲崎線の建設

「城東電気軌道」(「城東電車」と呼ばれた)は1917(大正6)年に「錦糸町停留場」~「小松川停留場」間で開業した軌道。その後、「錦糸町停留場」そばの「水神森停留場」から分岐し「小名木川停留場」を結ぶ砂町線を計画・建設し、1920(大正9)年に開通となった。さらに洲崎線として、1924(大正13)年に「仙気稲荷停留場」まで、1927(昭和2)年に「東陽公園前停留場」まで、翌年「洲崎停留場」まで延伸された。「城東電気軌道」は1937(昭和12)年に「東京乗合自動車」(当時「青バス」を運行していた)に吸収合併、翌年には「東京乗合自動車」が「東京地下鉄道」(当時、浅草・新橋間の地下鉄(現・東京メトロ銀座線の一部)を経営)に吸収合併された。図は「東京地下鉄道」が経営していた時期の「城東電車」の沿線案内図で、図の上が概ね南方向となる。図内右手の上(南)へ伸びる破線が砂町線・洲崎線。「小名木川」周辺には煙突が描かれ、工業地域であったことがわかる。【図は1937(昭和12)年~1942(昭和17)年】

「城東電車」の砂町線・洲崎線は1942(昭和17)年に「東京市電気局」に買収され、市電(翌年より都電)砂町線となった。戦後もこの地域の重要な交通機関であった。1972(昭和47)年に全線廃止。かつての軌道の一部が「亀戸緑道公園」「大島緑道公園」「南砂緑道公園」として整備されている。写真は「南砂緑道公園」で、園内に都電砂町線で使用された車輪が展示されている。戦前期の図の右に描かれていた「洲崎球場」は日本のプロ野球草創期の球場の一つ。1936(昭和11)年に開場するも、戦時中の1943(昭和18)年頃に解体と短命に終わった、現在跡地には「洲崎球場跡」の説明板が建てられている。
MAP __(車輪の展示場所) MAP __(洲崎球場跡地)

東京市への編入と同時に誕生した「砂町銀座」 MAP __

砂町が東京市に編入され、新設された城東区の一部となった1932(昭和7)年10月1日、商店会「平和会」の記念式典において、城東区選出市議(前日までの砂町の町長)は、『「砂町銀座」と呼ばれるような発展を望む』という祝辞を贈った。これを受け、その夜の役員会で商店街名を改称し「砂町銀座」が誕生となった。写真は昭和初期の「砂町銀座」(詳細な撮影位置は不明)。【画像は昭和初期】

「砂町銀座」は、戦前期は30軒ほどの商店街で、戦時中の空襲では焼け野原となった。戦後の「砂町銀座」は1950年代に大きく発展し、1963(昭和38)年頃にほぼ現在の形となった。1970年代になると周辺に大規模団地やマンションが増え、活気あふれる商店街となり現在に至る。


次のページ 深川で発展した産業


MAP

この地図を大きく表示



トップへ戻る