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深川で発展した産業

江戸期から運河網が張り巡らされていた深川・城東エリアは、江戸・東京の中心部に近いことから、物流の拠点や木材の貯木場などとして都市の発展を支え、明治期には倉庫業も発達した。また、多くの池を活かした養殖業も盛んになり、スッポン・うなぎの養殖の発祥の地ともなった。


江戸期の「木場」

1590(天正18)年、徳川家康が江戸へ入国すると、「江戸城」修築や、江戸の街の建設のため、大量の木材が必要となり、多くの材木商が江戸に呼ばれた。その後、日本橋木材町を中心に材木問屋が集められたが、1641(寛永18)年、江戸最初の広域大火「桶町の大火」が発生、延焼の原因が材木であったことから、幕府は材木置場として「永代島」を指定した(現・福住、佐賀付近)。その後、猿江への移転が命じられたため、材木商らは1701(元禄14)年から自力で「木場」(貯木場)を造成、1703(元禄16)年に深川木場町が誕生した(福住、佐賀付近の旧地は「元木場」と呼ばれた)。材木の運搬には水運が便利で、また、貯木には水中が都合が良かったため、一帯の湿地帯は貯木場の建設に向いていた。江戸期の江戸は、世界最大の都市として発展、また火事も多かったが、「木場」は、その成長と復興を資材面から支えた。図は江戸後期、『江戸名所図会』に描かれた「深川木場」。【図は江戸後期】

「木場」の発展

「木場」には江戸期から材木商の組合が造られ、明治期に入ると1886(明治19)年には「東京材木問屋組合・準則組合」が発足、1906(明治39)年に「東京材木問屋同業組合」へ改組された。大正期に入り、「木場」一帯は高潮や震災での筏(いかだ)の延焼など、大きな被害を受けたが、震災後は、材木の供給により東京の復興を支えた。また「木場」の街は、震災後の「帝都復興土地区画整理」で道路や橋の整備も進んだ。

1941(昭和16)年、木材は統制品となり、「太平洋戦争」での空襲で「木場」一帯は再び焦土となった。1950(昭和25)年に木材の統制が撤廃、自由競争の中で「木場」は再び発展し、建設資材の供給で東京の戦後期の成長にも貢献した。1976(昭和51)年までに「新木場」へ移転すると、跡地には広大な「木場公園」が整備され、1992(平成4)年に開園となった。

写真は大正後期~昭和戦前期の「東京材木問屋同業組合」の事務所。この建物は1924(大正13)年に竣工した。
MAP __【画像は大正後期~昭和戦前期】

写真は跡地の現在の様子。「木場公園」の北西部分、「多目的広場口」にあるトイレ(写真右手の建物)付近にかつて事務所があった。写真左手には、同じく「木場」の跡地に整備された「東京都現代美術館」(1995(平成7)年開館)が見える。

写真は大正後期~昭和戦前期、「東京材木問屋同業組合」の事務所から撮影した「木場」の様子。
MAP __【画像は大正後期~昭和戦前期】

古写真にあった「木場」の跡地は、「木場公園」の「多目的広場」付近となる。

戦前期の「木場」の街並み

写真は昭和戦前期の住吉一丁目付近の材木店の並ぶ街並み。
MAP __【画像は昭和戦前期】

写真は現在の同地点付近の様子。奥に見える橋は「新扇橋」。

写真は「亀久橋」から西方面を望む。運河は「仙台堀川」。
MAP __【画像は大正後期~昭和戦前期】

写真は現在の同地点付近の様子。

写真は昭和戦前期の「木場の角乗(きばのかくのり)」の様子。江戸期から続く、「木場」の筏師が角材を操る伝統の技で多くの観客が集まっている。
MAP __【画像は昭和戦前期】

古写真の場所は、現在の「木場公園」内「都市緑化植物園」付近と思われる。

写真は「木場公園」の一角に整備された「イベント池」。現在は、年に一度の「民俗芸能大会」の中で、ここを会場として、「木場の角乗」が披露される。
MAP __

「新木場」への移転

「木場」は周辺の都市化などにより、1958(昭和33)年から移転が検討されるようになり、1970(昭和45)年に「新木場」への移転が決定、1974(昭和49)年から1976(昭和51)年にかけて移転が行われた。写真は1970年代の「新木場」の貯木場。写真奥、中央のやや左手に1972(昭和47)年に開港した「東京都東京ヘリポート」の管制塔が見える。
MAP __【画像は1970年代】

写真は現在の「新木場」の貯木場。1980年代以降、南洋材の原木での輸出禁止や価格高騰、現地での製材への転換などから、水中貯木場は徐々に利用されなくなり、現在、原木の貯木は、ほとんど見られなくなった。

倉庫街としての発展

江戸期、運河が張り巡らされた深川の「大川」(現「隅田川」)沿い一帯には、幕府や大名家の蔵をはじめ、多くの倉庫が置かれ、世界最大の大都市、江戸の経済や生活を支え、明治期以降も倉庫街として発展した。「東京倉庫株式会社」は、1887(明治20)年に「三菱為替店」の倉庫業務を継承し深川小松町(現・永代一丁目)で創業した。写真は1909(明治42)年の様子。
MAP __【画像は1909(明治42)年】

「東京倉庫」は、1918(大正7)年に「三菱倉庫株式会社」となった。現在、創業の地付近には、同社の「永代ダイヤビルディング」(写真)が建てられている。

渋沢栄一は、1876(明治9)年、深川福住町(現・永代二丁目)に本邸を構え、1888(明治21)年に兜町へ移って以降は、別邸として利用した。この別邸があった場所に、1897(明治30)年、渋沢家の経営による「澁澤倉庫部」を創業した。写真は1909(明治42)年の「澁澤倉庫部」で、同年「澁澤倉庫株式会社」へ改組している。
MAP __【画像は1909(明治42)年】

「澁澤倉庫」は、この創業の地に高層オフィスビル「澁澤シティプレイス永代」(写真)を建設、2004(平成16)年に竣工した。

うなぎとスッポンの養殖の発祥の地 MAP __

深川周辺では、江戸末期より町民や下級武士による金魚や川魚の養殖が盛んであった。千田新田(現・千石三丁目)の漁師・川魚商で金魚・鯉などの養殖も行っていた鮒屋五郎兵衛徳次郎は、1866(慶応2)年にスッポンの養殖を試み、その後、甥の服部倉次郎がこれを引き継ぎ、1879(明治12)年には、うなぎの養殖にも着手した。以後、服部倉次郎は養殖池の改良や飼料の研究を進め、1884(明治17)年に「深川養魚」、1897(明治30)年には「洲崎養魚」といった会社の設立にも関わった。写真は1909(明治42)年の「洲崎養魚」の様子。【画像は1909(明治42)年】

服部倉次郎は、1900(明治33)年に「浜名湖」でのうなぎとスッポンの本格的な養殖も開始、現在では「浜名湖」の名産品となった。「深川養魚」の跡地は、現在の東陽二丁目のほぼ全域にあたる。写真は現在の東陽二丁目。東京メトロ東西線「東陽町駅」に近い便利な場所で、マンション、オフィスビル、学校、公共施設などの施設がある。

「小名木川駅」と越中島支線

「小名木川駅」は1929(昭和4)年に開業した貨物駅。貨物線は「亀戸駅」から引かれた。水陸連絡の拠点として建設され、特に木材の集散駅でもあり、開業当初から1960年代までは「小名木川」につながる入船場も設けられていた。写真は1931(昭和6)年頃の撮影。1935(昭和10)年度の「小名木川駅」における取り扱い量一位の品目は、到着が木材の約7万トン、発送が肥料の約15万トンであった。
MAP __【画像は1931(昭和6)年頃】

「小名木川駅」は貨物の取り扱い量減少などにより2000(平成12)年に廃止、跡地には2010(平成22)年に複合商業施設「アリオ北砂」がオープンした。

貨物線は「東京港」まで延伸される予定で、戦時中の1945(昭和20)年3月に「越中島駅」までの工事は完成したが、戦後「東京港」の港湾施設が「GHQ」に接収されたこともあり、「越中島駅」が正式に開業したのは1958(昭和33)年。貨物線は通称・越中島支線と呼ばれるようになった。越中島支線は「豊洲埠頭」「晴海埠頭」などの貨物も運んだほか、砂町にある車両の製造工場「汽車製造」の製品の回送にも使用された。写真は1968(昭和43)年撮影の越中島支線、「仙台堀川」の架橋部分。川面には多くの丸太が浮かべられている。
MAP __【画像は1968(昭和43)年】

現在、越中島支線は貨物の輸送には使用されておらず、1日3往復(運休の場合もあり)、「越中島貨物駅」にある「東京レールセンター」から発送される鉄道用レールの輸送などに使われている。写真は現在の同地点の様子。「仙台堀川」の大部分は1980年代に親水公園「仙台堀川公園」として整備されており、このあたりは多くの人や自転車が行き交う遊歩道となっている。また、越中島支線に沿って「南砂線路公園」が整備されており、運が良ければディーゼル機関車が走る姿を間近に見ることができる。


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