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江戸期からの観光名所「江の島」

「江の島」は、「岩屋」に始まる信仰の地。『江嶋縁起』には、「江の島」の出現、「龍口山」へと姿を変えた五頭龍、弁財天となって祀られた天女らの伝説が描かれている。弁財天は、鎌倉時代以降は「戦いの神」として、江戸期になると「芸能・音楽・知恵の神」として信仰され、江戸の庶民の間では「江の島参り」も流行した。「江の島三宮」は明治期の廃仏毀釈で「江島神社」となるが、古くからの信仰は連綿と続いている。


「江の島信仰」の発祥の地 MAP __

古墳時代に欽明天皇の勅命で、「岩屋」(現在の「第一岩屋」)に神様を祀ったのが「江の島信仰」の発祥といわれ、多くの高僧や武将がここを訪れて祈願のために籠ったという。かつては、夏になると「岩屋」に海水が入ったため、旧4月から10月の間は、「岩屋本宮」の本尊を山の上の「御旅所」(現「奥津宮」)に移していたといわれる。【画像は昭和10年代】

現在「岩屋」は石仏や句碑、奇岩などが見られる観光名所で、藤沢市が管理している。地形的には、海食崖の断層に沿って波が侵食した海食洞で、さらに隆起により海面より高い位置の洞窟となっている。

「江の島」の弁財天信仰 MAP __

1182(養和2)年、源頼朝の奥州藤原氏調伏祈願のため「八臂(はっぴ)弁財天」が造られた。その後、弁財天は「戦いの神」として、東国の武士にも信仰され、江戸期の泰平の世となると「芸能・音楽・知恵の神」として信仰された。三宮(「岩屋本宮」「上之宮」「下之宮」)は別当寺に管理されていたが、明治初期の神仏分離により仏式を廃し「江島神社」となり、それぞれ「奥津宮」「中津宮」「辺津(へつ)宮」となり現在に至っている。【画像は1970(昭和45)年】

写真は「辺津宮」の境内で、奥の八角形の建物は1970(昭和45)年に完成した「奉安殿」。「八臂弁財天」と「妙音弁財天」が祀られている。社殿は1976(昭和51)年に建て替えられ、権現造となった。

伝説が残る「稚児ヶ淵」 MAP __

「稚児ヶ淵」は「江の島」の西南端、「岩屋」の周辺に広がる。波によって削られた岩場(波食台)が、隆起により海面上に見えるようになったもので、「関東大震災」では約1mも隆起したといわれる。地名の由来となっている、稚児の白菊が海に身を投げたという伝説があり、江戸後期には脚色され歌舞伎の題材となった。【画像は明治後期】

勇壮な景観で、磯釣りの名所としても知られる。「富士山」や夕日の眺望も美しく、1979(昭和54)年には「かながわの景勝50選」に選定されている。

門前町と「青銅の鳥居」 MAP __

江戸中期頃から、「江の島」の弁財天信仰が江戸や近国の庶民の間に広まり、多くの人が参詣に訪れるようになった。弁財天の開帳や江戸での出開帳も行われるようになり、案内書や浮世絵も多数出版され、「大山」と「江の島」を合わせた「両参り」も流行した。写真は明治後期の門前町の様子。【画像は明治後期】

中央の「青銅の鳥居」は1747(延享4)年に建立、1821(文政4)年に再建された。「江の島道」における「三の鳥居」で、現存するのはこの鳥居のみ。現在も門前の通りには多くの店が並び、一年を通して観光客で賑わっている。

「江の島」の旅館と橋 MAP __(岩本楼)MAP __(江の島弁天橋)

江戸期まで、「岩屋本宮」「上之宮」「下之宮」の別当寺「岩本院」「上之坊」「下之坊」は宿坊でもあり、廃仏毀釈後は旅館「岩本楼」「金亀楼」「恵比寿楼」(現「恵比寿屋」)となった。写真は明治後期の「江の島」で、島の入口には「岩本楼」をはじめとする旅館街がある。島へは、干潮時は歩いて渡れたが、満潮時は渡し舟や渡し人足が必要であった。1891(明治24)年以降、村営(後に県営)の簡単な桟橋が架けられたが、度々流された。【画像は明治後期】

現在、「金亀楼」は廃業となったが、「岩本楼」「恵比寿屋」は旅館として営業している。橋は1949(昭和24)年にコンクリート製の「江の島弁天橋」となり、1958(昭和33)年に鉄筋コンクリート製となった。1962(昭和37)年には、「東京オリンピック」に向けて車両専用の「江ノ島大橋」も架けられた。


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