沿線の歴史散策 INDEX

「朝霞」の地名の由来はゴルフ場?!「膝折駅」からの改称

図は『東上線沿線へ』のうち、「新倉駅」(現「和光市駅」)から「鶴瀬」までの区間を切り出したもの。

「朝霞駅」は、東上線開通当初は「膝折(ひざおり)駅」だった。「川越街道」の宿場町「膝折宿」に由来し、当時の村名でもあった。「朝霞駅」への改称の理由は、戦前にわずか数年あったゴルフ倶楽部にある。1913(大正2)年に東京・駒沢に誕生した日本初の日本人によるゴルフクラブ「東京ゴルフ倶楽部」(以下・倶楽部)は、1930(昭和5)年、広大な土地を求めて膝折村への移転を決定した。その際、ゴルフクラブの地名が「膝折」では縁起が良くないという話になり、倶楽部の名誉総裁であった皇族・朝香宮鳩彦王にちなんで「朝霞」が新町名となった。「香」を「霞」に変更したのは、そのまま使用するのは畏れ多かったためという。

1932(昭和7)年、倶楽部の移転開業と同日に町制が施行され朝霞町(現・朝霞市)が誕生、この数日後に「膝折駅」も「朝霞駅」へ改称された。白亜のクラブハウスは建築家・アントニン・レーモンド氏の設計によるもので、『東洋一のゴルフコース』とも呼ばれた。しかし、戦時体制下に入ると倶楽部の土地は陸軍が使用することになり、1940(昭和15)年、狭山へ再移転となった。現在、倶楽部の跡地は「陸上自衛隊 朝霞駐屯地」などになっている。

朝霞には、幻となった「朝霞大仏」の計画もあった。倶楽部が朝霞へ移転した翌年、東武鉄道の根津嘉一郎氏は、総面積5万坪ともいわれる「朝霞遊園地」を私財で計画した。当時は珍しくなかった、仏教をテーマにした遊園地で、「大梵鐘」(高さ約3.9m、当時国内2位の大きさ)や「朝霞大仏」(像高約11.8m、当時国内3位の大きさ)が目玉とされた。「大梵鐘」は1935(昭和10)年に完成し話題を集めたが、「朝霞大仏」は塑像まで完成したものの、日中戦争の影響で計画が中断。完成すれば「鎌倉の大仏」よりも巨大であったが、実現には至らなかった。

「朝霞大仏」の実物大の塑像 「朝霞大仏」の鋳造の原型となる予定だった実物大の塑像。
現在の「平林寺」 現在の「平林寺」。

路線図の「志木駅」の南には、雑木林に囲まれた「平林寺(へいりんじ)」と水路が描かれている。この境内林は、1968(昭和43)年に国の天然記念物に指定された。雑木林としては国内で唯一の指定となっている。路線図に描かれている水路は、川越藩主・松平信綱によって開削された「野火止用水」。信綱は、江戸の上水「玉川上水」の開削の総奉行を務め、この功績から「玉川上水」から領内への分水が許された。これにより、水の乏しかった「野火止新田」に「野火止用水」が開削され、地域の発展の礎となった。なお、「平林寺」は、元は現在のさいたま市岩槻区平林寺にあったが、1663(寛文3)年に信綱の遺志により、菩提寺として野火止へ移転となった。こうして、用水と大寺院が整備された「野火止新田」の「川越街道」沿いには、「野火止宿」も発達した。


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