沿線の歴史散策 INDEX

「タイガース」ではなく「高校野球」のために造られた「甲子園球場」

図は『阪神電車沿線名所図絵』のうち、「武庫川駅」から「西宮駅」までの区間を切り出したもの。

風光明媚な西宮周辺では、1905(明治38)年に「阪神電鉄」が開通すると大阪・神戸からアクセス性が向上し沿線の観光開発が加速。開通から2年ほどの間に「鳴尾百花園」「香櫨園」「鳴尾速歩競馬場」などが誕生。すぐに衰退してしまった施設もあったが、その後のレジャー施設や高級住宅地の開発、工業的な発展へつながる礎となった。

1907(明治40)年に開場した「関西競馬場」では、競馬以外にも多様なイベントが開催された。1916(大正5)年からは「阪神電鉄」が運動場として借り受け、翌年から「全国中等学校優勝野球大会」(現「全国高校野球選手権大会」)の会場となった。その後、地元「甲陽中学校」の優勝などで野球人気が高まると、観客を収容しきれなくなった。

この状況を受け、「阪神電鉄」は沿線開発として1924(大正13)年、枝川の埋立地に「甲子園大運動場」(のち「甲子園球場」へ改称、現「阪神甲子園球場」)を建設。1935(昭和10)年には職業野球(プロ野球)の「大阪野球倶楽部」(現「阪神タイガース」)を設立し、その本拠地とした。 さらに周辺には遊園地・動物園なども整備され、「甲子園」一帯は沿線最大の行楽地として発展していった。

大正末期~昭和初期の「甲子園大運動場」 大正末期~昭和初期の「甲子園大運動場」。
「宮水発祥之地」の碑 「宮水(みやみず)発祥之地」の碑。「宮水」は日本酒の醸造に適した地下水で、江戸末期に発見、以降の「西宮郷」の発展を支えた。

「阪神電鉄」が通る阪神間の海岸沿いは、江戸中期以降、酒造が盛んになった地で、一帯は「灘五郷」と呼ばれる。明治期には、酒造家たちは本業の近代化を進めるとともに、海運・保険・不動産などの事業にも進出し、政財界で活躍する名士も多く輩出した。代表的な酒造家には、「今津郷」の長部家(「大関」)、「西宮郷」の辰馬家(「白鹿」「白鷹」)、「魚崎郷」の山邑家(「櫻正宗」)、「御影郷」の嘉納家(「菊正宗」「白鶴」)、「西郷」の西村家(「沢の鶴」)などがあり、学校設立や公共施設の寄付、自治体の首長・議員を務めるなど地域の発展を担った。

「阪神電鉄」の設立では、辰馬家が発起人や出資、人材面で協力した一方で、『エレキ(電気)のために酒の味が悪くなる』として反対する酒造家もいた。しかし開業後、「阪神電鉄」は沿線への電力供給も行い、酒造業をはじめとする沿線工業の発展に大きく貢献した。


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