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古代「吉備国」の繁栄から「岡山城」築城まで


備中国の一宮「吉備津神社」 MAP __

「吉備の中山」の西麓に鎮座する「吉備津神社」は、かつて「吉備国」の総鎮守であり、分国後は備中国一宮となった、「山陽道」随一の古社。社伝によれば、仁徳天皇の行幸時の創建とされ、御祭神の「大吉備津彦命(おおきびつひこのみこと)」は崇神天皇が派遣した四道将軍のひとりで、昔話「桃太郎」のモデルともいわれている。同じ御祭神である「吉備津彦神社」も「吉備の中山」の東麓にあり、こちらは備前国一宮となった。【画像は1926(大正15)年】

国宝である「比翼入母屋造(ひよくいりもやづくり、通称「吉備津造」)」の本殿は、1425(応永32)年に足利義満が再建して以降、現在までその姿を残している。

「岡山平野」南部に広がっていた「吉備の穴海」

現在の「岡山平野」の南部は、安土桃山時代まで「吉備の穴海」と呼ばれる内海が広がっていた。吉備の枕詞である「真金(まがね)吹く」は、古代から「中国山地」で「たたら製鉄」が盛んであったことに由来する。「たたら製鉄」では1回の操業に、それぞれ15tほどの砂鉄と木炭が必要であったという。砂鉄は「中国山地」の山を切り崩した土砂から取り出されたが、その割合は1~3%程度といわれ、残った大量の土砂は川から流されたため、河口付近に土砂が溜まり遠浅の海が形成されることとなった。現在の地名、早島、玉島、児島などは、かつて島であったことの名残といわれる。画像は明治後期に著された『児島湾開墾史』内のもので、「岡山平野」の南部が海だった頃の様子が描かれている。【画像は古代の内海の様子(明治後期に推定されたもの)】

宇喜多氏による「岡山城」の築城、「旭川」の付け替え MAP __(撮影地点)

戦国大名として頭角を現した宇喜多直家は、「旭川」下流の大洲原にあった「石山城(後の二之丸)」に入城して改築、息子である秀家が、隣接する「岡山」に本丸を築いたのが「岡山城」。城郭配置が西側のみに展開していることが特徴となっている。「旭川」の流路を、天守閣の東を沿うように移し、天然の濠とした。写真は「太平洋戦争」で焼失する前の天守閣。【画像は明治後期】

「旭川」は「吉井川」「高梁(たかはし)川」と並ぶ『岡山三大河川』のひとつ。畔にそびえる「岡山城」は、その姿から「烏城(うじょう)」とも呼ばれる。春には河川敷の桜が、夏には花火が名城を彩る。天守閣は1966(昭和41)年に再建された。


「桃太郎伝説の地」岡山

備前国一宮「吉備津彦神社」の桃太郎像

備前国一宮「吉備津彦神社」の桃太郎像MAP __

岡山のシンボルともいえる昔話の主人公「桃太郎」。駅前広場には「桃太郎」の銅像が建ち、駅前のメインストリートは「桃太郎大通り」であり、岡山県のマスコット「ももっち」も「桃太郎」をモチーフとしたもの。このように、岡山では至るところで「桃太郎」に出会うことができる。しかし、いわゆる「桃太郎伝説」は全国に伝わっていたため、今日のように「岡山といえば桃太郎」というイメージが定着したのは、意外と新しいようだ。


「温羅伝説」の舞台ともいわれる古代山城「鬼ノ城」

「温羅伝説」の舞台ともいわれる古代山城「鬼ノ城」MAP __

それは、1930(昭和5)年、岡山の彫金家、難波金之助が著書『桃太郎の史実』の中で発表した説に始まる。難波は「吉備津神社」の御祭神である「大吉備津彦命」による「温羅(うら)退治」の伝説が、昔話「桃太郎」のモデルと主張したのである。ちなみに「温羅」がいたのは現在の総社市の古代山城「鬼ノ城(きのじょう)」であったとされている。

「桃太郎」による町おこしは、既に香川県高松市や愛知県城東村(現・犬山市)でも始まっていたため、岡山は出遅れた形となった。しかし、岡山が全国有数の桃の産地であったこと、既に江戸後期から「吉備団子」という名物があったことなどから有利に働き、現在のような「桃太郎伝説の地」と言われるまでになった。


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