今から6千年ほど前、尼崎市域のほとんどは海底にあった。海岸線が南下し人々が暮らし始めたのは弥生時代のこと。784(延暦3)年から785(延暦4)年にかけて、「長岡京」の遷都に伴い「神崎川」と「淀川」をつなぐ水路が開削されると、「神崎川」は都と瀬戸内、西国を結ぶ交通路となり、平安時代後期には川船と渡海船を乗り換える河口の港が栄えた。このうち「大物(だいもつ)浦」は謡曲『舟弁慶』ゆかりの地としても知られ、『平家物語』など様々な作品に取り上げられている。平家滅亡後、源頼朝との対立が激しくなった義経は都落ちを決意し、西国を目指して「大物浦」から船出したとされている。錦絵は嵐に翻弄される義経一行と、海中には義経が滅ぼした平家の亡霊が描かれている。
兵庫県南東部に位置する尼崎市は、古代から中世にかけて大和や難波、京都といった政治・経済の中心地と西国・瀬戸内を結ぶ陸上・海上交通の要衝として栄えた。江戸期には大阪の西を守る要の地として「尼崎城」が築かれ、城下町が形成された。明治期に入ると大阪・神戸間を結ぶ鉄道が開通し「神崎ステーション」(現・JR「尼崎駅」)が設置され、大正期にかけて川辺馬車鉄道(現・JR福知山線)、阪神電気鉄道、阪神急行電鉄(現・阪急電鉄)などが次々と開業。こうした交通整備を受けて「尼崎紡績」(現「ユニチカ」)、「旭硝子」(現「AGC」)など多くの企業が海岸沿いに工場を設置する一方で、阪急・阪神沿線を中心に住宅地が開発されていった。