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街の発展を支え、見守ってきた老舗

「多摩田園都市」は昭和30年代以降に開発された新しい街であるが、周辺には江戸時代~大正時代創業で、地域の発展を支え、変化を見守ってきた老舗もある。


「荏田宿」の「現金屋呉服店」 MAP 34(移転前) MAP 35(現在)

大正時代の「現金屋呉服店」。創業は江戸時代前期の1677(延宝5)年という老舗。「大山道」を江戸方面から向かうと、「荏田宿」に入って右側二軒目にあった。幕末の1863(文久3)年頃の「荏田宿」には、旅籠、豆腐店、足袋店、薬店など35軒が軒を連ねていたという。【画像は1924(大正13)年頃】

現在は80mほど南に移転して営業を続けている。店名は「現金屋」で、衣料品、学校制服、寝具、祭り用品などを扱う。当時「現金屋呉服店」があった場所は、現在「JA横浜 荏田支店」となっている。

多くの人が働く「武蔵蚕業 金城社」 MAP 36

「武蔵蚕業 金城社」は、市ヶ尾をはじめとする「鶴見川」流域の村々で指導した養蚕教師、水野平三郎氏が興した会社。写真は生繭が出荷される様子で、各村の養蚕農家から集められた繭は、馬車に乗せられ製糸工場に運ばれた。多数の人馬や子どもたちが写り、当時の繁栄ぶりが見て取れる。手前の道は東海道「神奈川宿」から川和、市ヶ尾、柿生を経て日野、八王子に至る「日野往還」。絹・生糸の輸出港であった横浜と、多摩丘陵の養蚕地域を結ぶルートの一つであり、市ヶ尾周辺も産地・集積地となった。【画像は1925(大正14)年】

現在は水道工事を行う「水野商会」の事務所となっている。建物の前を通っていた「日野往還」は現在の「横浜上麻生道路」の旧道のさらに旧道にあたる。旧道沿いには、旧家の建物や神社、古墳などの史跡も多く、歴史が感じられる。


インタビュー:「新聞」の配達を通じて地域づくりの一端を担う

1923(大正12)年の創業から90余年の歴史をもつ「廣田新聞店」。農村地帯の文化の伝道役として始まり、「多摩田園都市」開発という大きな変化とともに発展、様々な形で地域へ貢献してきた、地元を代表する老舗企業。三代目社長を経て会長となった廣田実氏にお話を伺った。

不運を克服した『田園』の文士

サイドカーで取材に出かける廣田花崖氏【写真は大正期】

サイドカーで取材に出かける廣田花崖氏【写真は大正期】

廣田花崖(ひろたかがい・本名 鐡五郎)氏は、1887(明治20)年に神奈川県都筑郡下谷本村(現・横浜市青葉区藤が丘二丁目)に生まれた。陸軍技手として勤務していた際の事故で下半身不随となり帰郷、1919(大正8)年33歳の時、現在の「廣田新聞店」の場所に山房を建て執筆活動を開始。その傍ら「横浜貿易新報社」(現「神奈川新聞」)の記者としての取材活動も始めており、当時珍しかったサイドカーで取材に出かける写真も残っている。1925(大正14)年に発表された『田園』は、当時の農民の暮らしぶりを短文の随筆としてまとめた代表作。現在では、この地域の風土を知る貴重な手がかりともなっている。


文化の伝導役「新聞」の配達

「花崖山房」で新聞販売店を創業【写真は昭和初期】

「花崖山房」で新聞販売店を創業【写真は昭和初期】 MAP 37

花崖氏は、周囲から請われ1923(大正12)年に「廣田新聞店」を創業している。当時、貴重かつ重要な文化の伝導役であった「新聞」を配り続けるとともに、交通安全キャンペーン、農村の女性たちのための勉強会の開催や、地元の尋常小学校(現「横 浜市立谷本小学校」)の子どもたちに見聞を広めてもらおうと、全国的にもまだ珍しいタクシーを多数チャーターして社会見学に出かけさせたりと、当時から地域づくりの一端を担っていた。


引き継がれる地域へのまなざし

現在の「廣田新聞店」。「花崖山房」の跡地に建っている

現在の「廣田新聞店」。「花崖山房」の跡地に建っている

現在の「廣田商事(「廣田新聞店」)」会長、廣田実氏は、1952(昭和27)年に青森県で生まれ、18歳のときに上京し新聞奨学生として働き始めた。『上京した1970(昭和45)年当時はまだ、現在ニュータウンと呼ばれている地域も鬱蒼と茂った林が広がっていて、青葉台に行くまでの道も舗装されずドロドロの赤い土でした』『夜の列車で到着して、朝起きて辺りを見たら豊かな自然がひろがっていた。「うちの田舎と変わらないじゃないか!」、「本当にここは横浜か?もしかしたら騙されて連れて来られたんじゃないか?」と不安に感じたこともあった』と当時の思い出を楽しそうに語ってくれた。

その後、社員を経て三代目社長へ、そして2011(平成23)年より同社会長に。その胸の内には、『地域貢献に上限はない』を信条とする初代からの変わらぬ思いがあり、創刊より30年続く月刊情報紙『ひろたりあん通信』の充実や、地域の掲示板の設置、「地域の防犯防災情報」掲出など、あらたな取組みへの挑戦と、既存の取組みの拡充が行われている。


地域の魅力を発掘・再発見

1986(昭和61)年に創刊した月刊広報紙『ひろた店(みせ)だより』(後に『ひろたりあん通信』に改称)は、現場の配達員とお客さんとをつなぐ「接点」として廣田実氏が二代目社長と考案したもので、銀行の自動引落しによる集金の案内とプレゼントコーナーを主にしたB4版片面1ページの手描きの内容であった。現在も新聞購読世帯の約85%が自動引落しという業界的にもトップクラスの数値を誇り、コストカットできた費用は『ひろたりあん通信』の発行などを通じて、地域に貢献している。『ひろたりあん通信』ではイベント情報や読者参加型のコーナーをはじめ、ニュータウンに住む人にとってはなかなか知り得ない地域の歴史についても積極的に取り扱う。古墳や遺跡、開発前の村の様子などを紹介するコラムのほか、「多摩田園都市」の開発前・開発直後と現在の写真を比較する連載「わが街今昔」などが人気となっている。


「百年企業」を目指す「新聞店」

会長の廣田 実さん

会長の廣田 実さん

現在、インターネットやスマートフォンの普及などにより購読率が低下、転換期を迎えている新聞業界。「廣田新聞店」においても『会社としてどう生き残っていくか、あらたな事業に挑戦する時期』と捉えている。廣田会長は、『新聞というモノを提供するだけではなく、配達員とお客さまとのつながりや、イベントの開催、月刊広報誌の発行などを通じて地域づくりの一端を担ってきた』と自負する。今後は『地域に密着していることで知り得る細かいニーズを汲み取りながら、住民と顔を見知った配達員や、新聞配達に使うバイクの機動力など、新聞販売店としての特性も生かしたサービスを模索していきたい』という。

『田園』地帯の文化の伝道役に始まり、地域の変化とともに発展、新旧の住民を繋ぎ、『多摩田園都市』としての新しい文化の創生にも貢献してきた「廣田新聞店」。誰も想像できなかったであろう、大きな地域の変化を乗り越え100年を目指す企業となったことは、創業者・廣田花崖氏の理念が時代や環境を超える普遍的なものであったため、といえるのかもしれない。


お話 : (株)廣田商事 代表取締役会長 廣田 実さん

1952(昭和27)年青森県下北郡田名部町(現・むつ市)生まれ。18のときに上京し廣田新聞店の新聞奨学生となり、その後入社。(株)廣田商事三代目社長を経て2011(平成23)年より会長。月刊広報紙『ひろたりあん通信』の発行等を通じて地域貢献にも積極的に取り組む。



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