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「大山道」沿道の開発の始まり

戦後間もない1953(昭和28)年、将来の東京における人口の過密を予測した「東急電鉄」会長・五島慶太氏が『城西南地区開発趣意書』を発表したことが、のちに「多摩田園都市」と呼ばれることになるニュータウン開発の始まり。東京の城西南地区として、川崎市・宮前地区や横浜市北部の「大山道」の沿道一帯が計画地とされた。


戦後間もなく始められたニュータウン建設計画

1953(昭和28)年、「大山道」沿道の土地所有者が「東急電鉄」本社に招かれ『城西南地区開発趣意書』が発表された。東京では将来の人口の過密が予測されることから「田園都市」建設の必要があり、建設地としては「大山道」沿いが最適として、計画への協力が要請された。

その後、土地の買収とともに、関係省庁との調整などが行われ、1956(昭和31)年に「多摩川西南新都市計画」が決定、モデル地区の開発が進められることになる。この際、鉄道の新線(のちの東急田園都市線)の駅より概ね1kmの範囲が市街化許容区域とされたため、当初予定されていた、現「港北ニュータウン」一帯などは計画から除外され、町田市南部の一部(現・つくし野など)、大和市北部の一部(現・つきみ野など)が追加された。【画像は1953(昭和28)年発表の『城西南地区開発趣意書』内の地図】

開発のモデル地区となった「野川第一地区」 MAP __

最初に開発が行われ、のちの開発のモデル地区となった「野川第一地区」。1959(昭和34)年に起工、1961(昭和36)年に竣工している。【画像は1961(昭和36)年頃】

現在の「野川第一公園」付近。成長した街路樹が開発当時からの時間の流れを感じさせる。

「青葉台」周辺としては最初の開発となる「恩田第一地区」 MAP __

「野川第一地区」に続き開発が行われた「恩田第一地区」。現在の「青葉台駅」の南、青葉区つつじが丘にあたる。写真は1963(昭和38)年に販売された平屋の建売公庫住宅。撮影場所は現在の「横浜市立谷本中学校」の西側付近で、北東方面を望んでいる。【画像は1963(昭和38)年頃】

開発前の谷戸と「平川の大燈籠」 MAP __ MAP __(大燈籠跡)

昭和30年代後半の様子。開発前には丘陵地内に伸びる細長い谷戸に沿って道路や水田が拡がっていた。トラックの右には「平川の大燈籠」が見える。幕末期に渋谷の薩摩屋敷へ奉公した娘が、屋敷の引き払いに際して記念にもらい受けたものといわれ、「薩摩灯籠」とも呼ばれた。【画像は昭和30年代後半】

現在の青葉区美しが丘四丁目の「覚永寺」バス停付近で、県道をはさんで、元石川町方面を望む。

「平川の大燈籠」は近年まで前掲の写真のマンション裏付近にあったが、2021(令和3)年に撤去された。【画像は2016(平成28)年撮影】

幻の「東急ターンパイク」

当時の「東急電鉄」会長・五島慶太氏は、アメリカ合衆国の交通事情から、有料道路事業に将来性を見いだし、「東急ターンパイク計画」を策定している。1954(昭和29)年に渋谷~江ノ島間の「東急ターンパイク」及び小田原~箱根峠間の「箱根ターンパイク」、1957(昭和32)年に藤沢~小田原間の「湘南ターンパイク」の3路線の免許が申請された。

しかし「東急ターンパイク」は「日本道路公団」(1956(昭和31)年設立)が後から計画した「第三京浜道路」と競合することとなり免許申請は取り下げられ、その延長線上となる「湘南ターンパイク」も断念、「箱根ターンパイク」(現「アネスト岩田 ターンパイク箱根」)のみ1965(昭和40)年に開通となった。図面右側の赤い線が「東急ターンパイク」の予定線であった。【画像は1956(昭和31)年作成の『多摩川西南新都市 開発計画図』】


「多摩田園都市」の誕生まで

「田園都市線起工式々場」(現「鷺沼駅」付近)

写真は「田園都市線起工式々場」の看板で、現在の「鷺沼交番前交差点」付近から東方面の撮影。【画像は1963(昭和38)年】
MAP __(撮影地点)

現在の「鷺沼交番前交差点」付近

現在の「鷺沼交番前交差点」付近。

大正期から昭和初期にかけて、「武蔵野台地」上や「多摩丘陵」など、東京の西郊では鉄道が開通、沿線は住宅地・商業地など都市としての発展が始まっていた。大正時代、実業家・渋沢栄一氏の「田園都市株式会社」により、「田園調布」「洗足田園都市」など現代でも日本を代表する邸宅地の開発が行われるが、その後この会社の事業を継承したのが、五島慶太氏の「目黒蒲田電鉄」(現「東急電鉄」)であった。

「大山道」沿いには、明治後期に「武相中央鉄道」などの計画はあったが実現には至らず、乗合馬車、のちにはバスが地域の交通の中心となった。荏田では、戦時中にガソリンを節約するため乗合馬車が復活、バスの運行が再開される1947(昭和22)年まで唯一の公共交通手段であった。東京都心から30km圏内という近距離に位置しながらも、交通利便性は低く、戦後まで静かな農村地帯であった。

1953(昭和28)年、「東急電鉄」会長・五島慶太氏は、戦前の「田園都市」開発のノウハウと経験を活かすべく、「大山道」の沿道一帯を対象地域とする『城西南地区開発趣意書』を発表。その3年後には「多摩川西南新都市計画」を決定、モデル地区の開発が進められることになった。

先行して行っていた計画地内の土地の買収は行き詰まりを見せていたこともあり、モデル地区の開発は「東急電鉄」が創案した「一括代行方式」による土地区画整理事業で行われた。地権者が組合を設立、「東急電鉄」は保留地を一括取得することを条件に、資金の提供と組合業務を代行するというもの。地権者にとっては、土地(減歩はされる)を手元に残しながらも、組合運営の負担は少なく、「東急電鉄」にとっては「保留地の取得により街づくりのリーダーになりうる」などのメリットがあり、以降の開発はこの方式で行われている。

1963(昭和38)年に溝ノ口~長津田間の鉄道が着工となり、新都市名は「多摩田園都市」と命名、延長される東急大井町線は先行して「田園都市線」と改称された。


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