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「相模川」「相模湖」がもたらす恵み

「相模川」「相模湖」は水道水のほかにも、鮎などの漁業、農業用水、建設資材としての砂利、水力発電による電力、観光資源など、流域に様々な恵みをもたらしてきた。昭和戦後期には「県営相模原畑地灌漑(かんがい)事業」により、「相模原台地」上の灌漑用水も整備されたが、都市化の進行などから、充分に機能しないまま廃止となった。


「相模川」の砂利を運んだ「ナベトロ」 MAP 26

「多摩川」の砂利採取は、大正時代、特に「関東大震災」以降から昭和初期に最盛期となるが、乱獲により1934(昭和9)年から規制されるようになり、1936(昭和11)年には下流部で採取禁止に。この頃から「相模川」での砂利採取が本格化した。1927(昭和2)年開業の「小田原急行鉄道」(現「小田急電鉄」)は、従来、砂利輸送のみを行っていたが、1933(昭和8)年に「相模川」の「新田宿鉱区」(現・座間市新田宿)および「新磯鉱区」(現・相模原市南区磯部)での砂利採取の認可を得て、採取・販売を開始した。「新磯鉱区」から搬出する小田急「座間駅」(現「相武台前駅」)までの間に鍋の形をしたトロッコ、通称「ナベトロ」が引かれた。この周辺では、新戸(現・相模原市南区新戸)、四ツ谷(現・座間市四ツ谷)でも砂利採取が行われた。【画像は昭和初期~中期】

「相模川」の砂利採取は、1964(昭和39)年に全面的に禁止された。写真の場所は、現在「三段の滝下多目的広場」として整備されており、毎年5月に開催されている「相模の大凧まつり」の会場の一つにもなる。

砂利採取船と「ナベトロ」。【画像は昭和初期~中期】

「新磯鉱区」の「ナベトロ」の経路の一部は、「陸軍士官学校」建設のため買収となり、相模鉄道(現・JR相模線)の「座間新戸駅」(現「相武台下駅」)まで新たなルートが作られ、相模鉄道経由で搬出されるようになった。 【地図は昭和中期】

「相模川」両岸の農業生産を支える「磯部頭首工」 MAP 27

頭首工とは、農業用水を用水路へ引き入れるための取水堰、取入口などの施設。「磯部頭首工」では「相模川」の水を取水している。現在の相模原市から茅ヶ崎市にかけての「相模川」の左岸の約2,000haの水田を灌漑する用水路および排水施設の整備を目的とする「県営相模川左岸用排水改良事業」が1930(昭和5)年に施行され、用排水路を管理する「相模川左岸普通水利組合」(現「神奈川県相模川左岸土地改良区」)も発足した。1935(昭和10)年に「磯部頭首工」が完成、取水が始められ、1940(昭和15)年、約20kmに及ぶ用水路と排水施設が完成となった。写真は完成当時の「磯部頭首工」の取水堰。江戸時代後期にもほぼ同じ場所に「五カ村用水」の取入口があったといわれている。「五カ村」とは磯部村、新戸村、座間村、新田村、入谷村で、現在の相模原市南区の一部、座間市の一部。【画像は1935(昭和10)年頃】

現在の「磯部頭首工」の取水堰。1968(昭和43)年から「相模川磯部堰土地改良区連合」が管理を行っている。洪水吐(こうずいばき)の左右両側には魚道が整備されている。

1959(昭和34)年には、対岸となる右岸の厚木市などの灌漑のため、「磯部頭首工」で取水した用水を、頭首工の下流約200mの地点で「相模川」の河床下を横断させるための伏越(逆サイホン)も完成。伏越地点には、実際に使われている鉄筋コンクリート井筒を使った記念碑も建てられている。MAP 28

都市化の波に飲み込まれた灌漑用水

「相模川河水統制事業」の当初の計画では「相模原開田開発」の農業用水が含まれていたが、「相模原台地」の軍事施設化が進められたこともあり、開田開発は中断となった。戦後、食糧事情が逼迫すると、県は再び台地の開田に着目し、1948(昭和23)年に「県営相模原開発畑地灌漑事業」が着工となった。「相模ダム」下流の「久保沢分水池」から取水した水で、藤沢までの台地を灌漑するため、幹線計約41.9km、支線・排水路計約40.5kmの用水路が建設された。「全国に先駆けての畑地灌漑事業」として、全国から視察者が訪れるなど注目されたが、1960(昭和35)年頃から食糧事情の好転や台地の工業地化・住宅地化が進み用水利用者も徐々に減少。1964(昭和39)年、専用導水路(約9.7km)の完成をもって工事は終了したが、その6年後の1970(昭和45)年に利用者組合は解散し、用水は使われなくなった。図は1965(昭和40)年に出版された『神奈川県 相模原開発畑地かんがい技術史 図面編』に掲載の地図の一部。MAP 29(久保沢分水池)【地図は1965(昭和40)年】

用水路跡は県が緑道として整備、2002(平成14)年度から2008(平成20)年度にかけて市に移管された。現在、相模原市内の「東幹線用水路」と「東幹線用水路大野支線」跡の大部分が「相模緑道緑地」、「西幹線用水路」跡の一部が「さがみの仲よし小道」となっている。写真は「木もれびの森」内に残る「大野支線」の水路跡。2003(平成15)年に「相模原市登録有形文化財」となっており、当時の姿を見ることができる。MAP 30

写真は相模原市南区新磯野の「小松会病院」の北側付近に残る支線。コンクリート製で上部が開いた形のセグメント管水路となっている。MAP 31

観光地となった「相模湖」 MAP 32

「相模湖」は完成後、多くの人が訪れる観光地となった。1948(昭和23)年からは「相模湖」に関連して亡くなった方の慰霊と、湖の安全を願うための花火大会が開かれ、現在は「さがみ湖湖上祭花火大会」として夏の風物詩となっている。1952(昭和27)年には「神奈川県立相模湖電気科学館」が開館。1953(昭和28)年には「相模湖漕艇(そうてい)場」が開設となり、1955(昭和30)年と1998(平成10)年には国体の会場、1964(昭和39)年には「東京オリンピック」のカヌー競技会場となった。写真は「東京オリンピック」開催当時のもの。【画像は1964(昭和39)年】

1994(平成6)年には「神奈川県立相模湖漕艇場」の新しい管理運営棟・艇庫が完成。現在も大会や練習などの会場として、神奈川県におけるボート競技の拠点となっている。湖内の島には「東京オリンピック」のときに使用された審判棟があり、現在も各種ボート競技で使われている。「神奈川県立相模湖電気科学館」は1989(平成元)年に閉館となり跡地に、2000(平成12)年「神奈川県立相模湖交流センター」「相模湖町立(現・相模原市立)相模湖記念館」がオープンしている。MAP 33(神奈川県立相模湖漕艇場)MAP 34(審判棟)MAP 35(神奈川県立相模湖交流センター)


戦前期までの「相模川」の行楽

昭和初期頃の磯部での「鮎漁遊船会」の様子

昭和初期頃の磯部での「鮎漁遊船会」の様子。

現在も鮎が多く生息し、鮎漁も盛んな「相模川」。平安時代中期の法令集『類聚三代格(るいじゅうさんだいきゃく)』の中には『相模国鮎河』として記され、江戸時代には「多摩川」とならんで鮎の名産地となった。

行楽としての「川下り」も古くより行われており、1870(明治3)年には、イギリス人が本国から取り寄せたカヌーで田名から川下りを楽しんだ記録も残る。昭和初期には与瀬下から城山まで(所要約2時間)をはじめ、複数のコースで「川下り」が運行された。この頃には行楽としての鮎釣りも盛んで、特に毎年6月1日の鮎漁の解禁日には多くの釣り客で賑わった。

「相模川」では、屋形船上で鮎漁を楽しみ、釣れたての鮎と酒を、同乗の芸妓とともに楽しむ舟遊び(「鮎漁遊船会」などと呼ばれた)も行われていた。「厚木宿」(現・厚木市)で、明治時代中期以降盛んになり、現在の相模原市内となる磯部(現・南区磯部)、水郷田名(現・中央区水郷田名)の料亭でも行われた。

「横浜貿易新報社」(現「神奈川新聞社」)は、1935(昭和10)年、神奈川県下の45か所の名勝・史跡を読者投票によって選定する「神奈川県名勝・史蹟四十五佳選」を行った。結果は、「鶴岡八幡宮」「寒川神社」「建長寺」など旧来より著名な名勝・史跡はほとんど選を外れ、町・村を上げて組織的な投票がされた所が多く入選、紙面に紹介記事が連載され、「横浜貿易新報社」により史跡標も建てられた。現在の相模原市内の「相模川」流域から、7位「石老山」、9位「八景の棚」、18位「城山城趾」、19位「鮎の水郷田名」など8か所が入選しており、戦前期の流域住民の地元愛と観光に懸ける熱意が伝わってくる。


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