中野坂上で製粉業を営んでいた浅田甚右衛門氏は、横浜でビール製造業を経営していたアメリカ人、ウィリアム・コープランド氏の「スプリング・バレー・ブルワリー」から醸造機械を買い取り、彼の技師を雇い入れて「浅田麦酒醸造所」を開設し、1885(明治18)年に「浅田ビール」を発売した。1890(明治23)年に上野で開催された「第3回内国勧業博覧会」で入賞を果たすなど当初の営業は好調で、「日清戦争」後の好景気などの追い風も受けた。画像は発売当時の「浅田ビール」の商標。しかし、やがて業績が悪化し、1912(明治45)年に廃業した。
「青梅街道」が通る中野は、多摩地方からやって来る農産物などの中継・集散地であり、食品加工業も発展した。明治期に創業した工場の中には、「石森製粉」「あぶまた味噌」など現在も営業を続けている所もある。また、地域の初等教育機関として、「桃園学校」(現「中野区立中野第一小学校」)が開校、東中野には「華洲園」と呼ばれた花園ができた。