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「鎌倉文士」の活躍

明治時代以降、鎌倉は政財界人や華族らの別荘地として脚光を浴びるとともに、多くの文化人も訪れるようになった。「関東大震災」以降は被害の大きかった東京からさらに文士が流入し、文壇を形成、いつしか「鎌倉文士」と呼ばれるようになった。また、文化財を保護していく活動も活発になり、「鎌倉国宝館」なども建設された。


鎌倉の文化財を保護する「鎌倉国宝館」 MAP __

「関東大震災」で鎌倉の社寺は大きな被害を受けたが、復興の中で文化財を保護するため、1928(昭和3)年、「鶴岡八幡宮」の境内に「鎌倉国宝館」が建設された。建設にあたっては「鎌倉同人会」をはじめとする地元の人々によって寄付が寄せられた。鎌倉近郊の社寺の代表的な作品などのほか、肉筆浮世絵を多数保管・展示している。【画像は1935(昭和10)年頃】

岡田信一郎の設計による、鉄筋コンクリート造、高床式校倉風建築の本館は、2000(平成12)年に国の登録有形文化財となった。


鎌倉で活躍した文士たち

近代の鎌倉を語る上で、文人や画家といった文化人の存在は重要度が高い。現在も「吉屋信子記念館」や「鎌倉市鏑木清方記念美術館」といった作家の旧居を利用した施設が多く残っている。

「鎌倉文士」という言葉が使われだすのは昭和期に入ってからだが、明治・大正期から、鎌倉を好んだ作家は多く、泉鏡花、夏目漱石、芥川龍之介らが鎌倉に滞在し、執筆を行っている。1924・1925(大正13・14)年に里見弴(とん)、久米正雄が相次いで移り住むとその求心力をもって文士たちのまとめ役となり、1933(昭和8)年に「鎌倉ペンクラブ」を発足。当時、鎌倉町議だった久米が会長となって、里見、大佛次郎らが参加した。同年に創刊された雑誌『文學界』も作家の移住を促す呼び水となり、50人近くの文化人が鎌倉に居住、滞在していたといわれる。1934(昭和9)年には、久米、大佛の発案で「鎌倉カーニバル」が開催された。

「太平洋戦争」中の1945(昭和20)年5月には、久米や川端康成、小林秀雄らが蔵書を持ち寄り、「若宮大路」沿いに貸本屋を開いた。戦後に出版社「鎌倉文庫」となり、拠点を東京へ移すと、雑誌『人間』の創刊など、精力的に出版活動を行った(1950(昭和25)年に倒産)。その後も鎌倉に住んだ作家は多く、2001(平成13)年に第二次「鎌倉ペンクラブ」が設立されている。


戦後に設立された「鎌倉アカデミア」

「鎌倉大学校」は、戦後間もない1946(昭和21)年5月、「新しい日本を担う若者を育成する」という理念のもと、「光明寺」の開山堂などを借りて仮校舎として開校。教授陣には哲学者・三枝博音、作家・高見順、劇作家・青江舜二郎らが名を連ねた。画像は「光明寺」開山堂での授業風景。 MAP __(鎌倉大学校跡) 【画像は1946(昭和21)年~1948(昭和23)年3月】

「光明寺」総門前、「鎌倉大學校假校舎」の看板がかかっている。【画像は1946(昭和21)年~1948(昭和23)年3月】

1948(昭和23)年、「海軍燃料廠第三試験所」跡の建物へ移転し「鎌倉アカデミア」と改称。しかし、財政難のため1950(昭和25)年に廃校となった。開設期間は短かったが、いずみたく、鈴木清順、前田武彦、山口瞳ら様々な分野の文化人を輩出、文学界・映画界・演劇界などに大きな影響を与えた。「鎌倉アカデミア」跡地は、現在の「横浜市 栄区役所」新館(写真奥の建物)付近となる。 MAP __(鎌倉アカデミア跡)

1996(平成8)年、創立50周年を記念して「光明寺」に記念碑が建立された。2017(平成29)年には、演劇科教授だった青江舜二郎の長男、大嶋拓が監督した映画『鎌倉アカデミア 青の時代』が公開された。

住民参加の夏の風物詩だった「鎌倉カーニバル」

1934(昭和9)年、「鎌倉カーニバル」が開催された。作家の久米正雄、大佛次郎が、フランスの謝肉祭をヒントにして発案し、住民たちが主役となり、鎌倉の町中で仮装パレードやダンスが繰り広げられた。やがて鎌倉の夏の風物詩となり、戦時中の中断を挟んで戦後も開催され、1962(昭和37)年まで続けられていた。【画像は1950(昭和25)年】

写真は1950(昭和25)年の「鎌倉カーニバル」の様子。【画像は1950(昭和25)年】

2016(平成28)年5月、「鎌倉カーニバル」の熱気を復活させようと、「第1回鎌倉市民カーニバル」が開催された。


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