近代の鎌倉を語る上で、文人や画家といった文化人の存在は欠かせない。現在は「吉屋信子記念館」や「鎌倉市鏑木清方記念美術館」「鎌倉市川喜多映画記念館」といった作家・文化人などの旧居を利用した施設も見られる。
MAP __(吉屋信子記念館)
MAP __(鎌倉市鏑木清方記念美術館)
MAP __(鎌倉市川喜多映画記念館)
「鎌倉文士」という言葉が使われだすのは「関東大震災」後・昭和初期以降であるが、明治・大正期から鎌倉を好んだ作家は多く、泉鏡花氏、夏目漱石氏、芥川龍之介氏をはじめとする著名な作家も鎌倉に滞在し執筆を行っている。1924(大正13)年に里見弴(とん)氏、1925(大正14)年に久米正雄氏が相次いで移り住むと、その求心力をもって文士たちのまとめ役となり、1933(昭和8)年に「鎌倉ペンクラブ」を発足。当時、鎌倉町議も務めていた久米氏が会長となり、里見氏、大佛次郎氏らが参加した。同年に創刊された雑誌『文學界』も作家の移住を促す呼び水となり、50人近くの文化人が鎌倉に居住・滞在していたといわれる。1934(昭和9)年には、久米氏、大佛氏の発案で「鎌倉カーニバル」が開催された。
「太平洋戦争」中の1945(昭和20)年5月には、久米氏や川端康成氏、小林秀雄氏らが蔵書を持ち寄り、「若宮大路」沿いに貸本屋を開いた。戦後に出版社「鎌倉文庫」となり、拠点を東京へ移すと、雑誌『人間』の創刊など、精力的に出版活動を行った(1950(昭和25)年に倒産)。その後も鎌倉に住んだ作家は多く、2001(平成13)年に第二次「鎌倉ペンクラブ」が設立されている。