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戦前期の春日原の開発

福岡市の南、現在の春日市内に位置する「春日原駅」の西側から南側にかけての一帯は、九州鉄道(二代目、現・西鉄)の開通と開発により発展が始まった地域。もともとは農業用の溜池もあった農村で、当初は住宅地が計画されたが不況から見合わせとなり、運動施設や行楽施設となった。その後、一部は陸軍工場、海軍飛行場、米軍基地などの軍事施設となり、野球場も戦後に解体された。現在は、大公園や公共施設、住宅地などが広がる地域となっている。


戦前期の地形図

1924(大正13)年、九州鉄道(二代目、現・西鉄)は「福岡駅」(現「西鉄福岡(天神)駅」)~「久留米駅」(現「西鉄久留米駅」)間を開通、福岡市近郊の筑紫郡春日村(現・春日市)に「春日原(かすがばる)駅」も同時に開業した。開通の3年前の1921(大正10)年、同社は春日原の溜池を含む原野82,000坪を買収、住宅地開発を目指すも不況から見合わせることとなり、運動施設や行楽施設を備えた「春日原総合運動場」を建設した。三つあった農業用の溜池のうち、北側の「龍神池(今池)」は遊園地、南側の二つは埋め立てられ、野球場、競技場が建設された。1933(昭和8)年には、地元住民が地区の更なる発展を祈願し、曹洞宗「東慶院」の寺籍を千葉県の佐倉から移し、愛知県の「豊川稲荷」を勧請、「豊川稲荷九州別院 東慶院」が開山。こちらは、現在でも近隣住民の信仰を集めている。地形図は1940(昭和15)年の頃の様子。「春日原運動場」「競馬場」「豊川稲荷」や、かつて遊園地があった「龍神池」などが描かれている。

「太平洋戦争」の終戦間際の1945(昭和20)年6月、全国各地に本土決戦に備えた特攻のための秘密航空基地(秘匿のため「牧場」と呼ばれた)の新設が決定。春日原では、牧場名を「春日野」とする「海軍春日原航空特別攻撃隊基地」が同年7月に野球場の南側から競技場の観覧席を壊して滑走路が造られたが、未完成のまま終戦を迎えたといわれている。【地図は昭和戦前期】

納涼場と遊園地 MAP __

納涼場と遊園地は「龍神池」周辺に造られた。納涼場は九州鉄道開通の翌年の夏に開設されている。数千本の桜が植えられ、桜の名所としても知られるようになり、貸ボートや茶店、活動写真場などの施設もあり賑わったが、世界的な不況や戦争に近づく世相の中、1933(昭和8)年に閉園となった。【画像は昭和戦前期頃】

現在も一部が残る「龍神池」。遊園地があった当時は約23,000㎡あったが、現在は大部分が埋め立てられ約3,000㎡となっている。

「春日原野球場」 MAP __

「春日原野球場」は九州鉄道開通と同年の10月に完成。「全国中等学校野球大会」の県予選の会場をはじめ、様々な野球大会が行われ、九州野球の中心地となり、ベーブ・ルースも来場している。「西鉄」(1942(昭和17)年に「九州鉄道」などが合併し発足)は、1943(昭和18)年から「春日原野球場」を本拠地とするプロ野球球団「西鉄軍」の活動を開始するが、戦況の悪化から翌年解散となった。戦後の1949(昭和24)年10月、「西鉄」はプロ野球球団「西鉄クリッパース」を設立、「春日原野球場」が本拠地となった。1951(昭和26)年1月、合併により「西鉄ライオンズ」(現「埼玉西武ライオンズ」)が誕生、本拠地は前年福岡市内に完成していた福岡市営の「平和台球場」に。その後も「春日原野球場」で年数回、試合が行われたが、1953(昭和28)年の公式戦を最後に閉鎖、解体された。跡地は宅地として開発され、1954(昭和29)年から「西鉄不動産」による「春日原分譲地」として、326区画が販売された。現在、跡地一帯にはマンション、住宅などが立ち並んでいる。【画像は昭和戦前期】

「春日原競馬場」 MAP __

1932(昭和7)年、「春日原競馬場」が「龍神池」から国鉄(現・JR)鹿児島本線を挟んで南側の「九州鉄道」所有地に開設された。コースは1周1,200m、幅27m、場内には観覧席、厩舎、馬券売り場などが整備され、地方競馬としては日本一の設備を誇った。1939(昭和14)年「軍馬資源保護法」の制定に伴い廃止となり、跡地には兵器工場の「小倉陸軍造兵廠(ぞうへいしょう)春日製造所」が建設された。【画像は昭和戦前期】

戦後、造兵廠の跡地は米軍基地とされたのち、1972(昭和47)年に返還、現在は「春日公園」や学校、住宅地などとなっている。写真は、戦前に競馬場の観覧席があった付近。現在は「県営春日公園野球場」がある。



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