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近年の広島、そのシンボルたち

広島市が誇る市民球団の「広島東洋カープ」や、自動車メーカーの「マツダ」は全国的に知られる存在となった。また、名産のかき(牡蠣)は、全国一の出荷量を誇り、広島を代表する食のひとつとなっている。


「広島東洋カープ」の本拠地、初代「広島市民球場」 MAP __

1949(昭和24)年に創設されたプロ野球球団「広島カープ」(後の「広島東洋カープ」)。市民や地元財界の寄付により1957(昭和32)年、現在の広島市中区基町にナイター設備のある「広島市民球場」が建設された。二代目の市民球場に移る2009(平成21)年まで、市民球団の本拠地として使用され、日本シリーズなどの舞台となった。【画像は昭和戦後期】

球場は2010(平成22)年に閉鎖され、その2年後に解体された。現在は「旧広島市民球場跡地整備等事業」が進められている。

松田重次郎社長の「東洋工業」は「マツダ」に

1920(大正9)年に「広島産業銀行」の頭取だった海塚新八が社長となり、コルク製造を行う「東洋コルク工業」が設立、翌1921(大正10)年に大阪で鉄工所を経営していた松田重次郎が二代目社長に就任した。1927(昭和2)年に「東洋工業」に商号を改め、1931(昭和6)年から三輪トラックの生産を開始した。この三輪トラックは、自らの姓(松田)とゾロアスター教の最高神「アフラ・マツダ」を重ね合わせて、「MAZDA(マツダ)号」(写真)と名づけられ、会社の発展と後の社名につながった。戦後は四輪トラック、軽自動車の生産を手掛けるようになり、ロータリーエンジン車の開発が推進された。1984(昭和59)年、社名を「マツダ」と改め、現在は日本を代表する自動車メーカーのひとつとなっている。【画像は昭和戦前期】


全国一の出荷量を誇る、広島の名産「かき」

「広島湾」の「杭打垂下法」によるかき養殖

「広島湾」の「杭打垂下法」によるかき養殖。【画像は昭和30年代前半】

かき(牡蠣)は、全国の出荷量の約60%を占める広島の名産品として知られている。「広島湾」は波が静かで「太田川」から流れ込む淡水に餌となるプランクトンも多いことから、かきの養殖に適しており、身はふっくらとして味が濃厚といわれる。

人々は長い間、天然のかきを食べていたが、室町時代の終わり頃にかきの養殖が始まったとされる。大正期の文献によれば「天文年間(1532~55年)、安芸国において養殖の法を発明せり」と書かれている。

当初は、干潟に小石を並べてかきを付着させ、成長を待つ「石蒔式養殖法」が行われていた。また、かきを干潟の上に置いて成長を待つ「地蒔式養殖法」もあった。その後、1627(寛永4)年に矢野村(現・広島市安芸区)の和泉源蔵が雑木を建てて、かきの養殖を始めたとされる。また、草津村(現・広島市西区)では延宝年間(1673~81年)に「ひび建て養殖」が考案され、大正末期頃まで行われてきた。

その後、昭和時代には棚を設ける「杭打垂下法(簡易垂下法)」が開始され、1932(昭和7)年に「広島県水産試験場」で新たに「筏式垂下法」が考案された。戦後、材料が改良され、筏の強度が増したことで、沖合での養殖が可能となり、広島のかきの生産量は飛躍的にアップした。




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