このまちアーカイブス INDEX

震災と戦災からの復興

深川区(現・江東区の西部)は「関東大震災」で大きな被害を受けた。昭和初期に震災からの復興を果たすも、「太平洋戦争」の「東京大空襲」では、深川区・城東区(現・江東区)はほぼ全域を焼失した。その後、戦災からの復興を果たし、現在では都心近接の住宅エリアとして発展している。


「関東大震災」で大きな被害を受けた深川区

1923(大正12)年の「関東大震災」では、深川区は区域の85%、世帯の92.7%を焼失する大きな被害を受けた。のちに城東区となる亀戸町・大島町・砂町では火災の出火はなかったが、深川区・本所区に隣接する地区で、延焼による被害を受けた。それぞれの焼失区域は、亀戸町が24%、大島町が18%、砂町が29%であった。倒壊した家屋は3町で全壊450戸、半壊538戸を数えた(各数値は1926(大正15)年刊の『大正震災志』による)。地図は『大正震災写真集』に掲載された『東京市附近火災地域及罹災民集団地要図』の一部、現在の江東区部分で、当時の区名・町名、界線を追記している。赤い線で囲まれた部分が火災地域となる。【図は1924(大正13)年発行】

写真は深川周辺の震災での被害の様子。左が「深川不動堂」、上が「富岡八幡宮」、右が黒江町(現・門前仲町一丁目)付近。【画像は1923(大正12)年】

岩崎家の「深川別邸」は「清住製材所」と「清澄庭園」へ

現在の「清澄庭園」は、江戸中期から「関宿藩久世家下屋敷」だった場所で、それ以前は豪商・紀伊國屋文左衛門の屋敷があったともいわれる。1878(明治11)年、「三菱財閥」創業者の岩崎彌太郎は、この地一帯を購入し「深川別邸」を整備、翌々年に竣工となり、迎賓館や社員の親睦の場として使用した。写真はジョサイア・コンドルの設計で1889(明治22)年に竣工した洋館。1921(大正10)年には庭園の東南を「清澄遊園」として市民に公開した。1923(大正12)年の「関東大震災」では近隣住民約1万人がここに避難し、火災から逃れることができたといわれる。
MAP __(洋館跡地)【画像は明治中期~大正前期】

「三菱財閥」三代目・岩崎久彌は、震災復興にあたり「深川別邸」の東側部分には医療施設の建設を計画したが、「東京市」(現「東京都」)は地震発生時の避難場所として公園・緑地の重要性を説くとこれに賛同し、震災の翌年の1924(大正13)年に「東京市」へ土地を寄付。「東京市」は整備ののち、1932(昭和7)年に「清澄庭園」を開園した。正面の建物は、1927(昭和2)年の大正天皇の大喪で使用された「葬場殿」を、翌年移築した「大正記念館」。
MAP __(大正記念館)【画像は昭和初期】

写真は現在の「清澄庭園」。「大正記念館」は戦災で焼失、1953(昭和28)年に貞明皇后の「葬場殿」の材料を使って再建されていたが、1989(平成元)年に全面改築となった。

震災で被災した「深川別邸」の西側部分は、1924(大正13)年、「三菱商事」が「清住製材所」を設立し使用した。震災後に急増していた木材需要に応えるためであった。写真は大正後期~昭和戦前期の「清住製材所」。前掲のジョサイア・コンドル設計の洋館は震災で焼失したといわれるが、写真左側の事務所と記載がある建物は洋館の一部であるように見える(詳細は不明)。【画像は大正後期~昭和戦前期】

「清住製材所」は、戦後昭和30年代まで、この地に製材所を設けていたという。この土地は、1973(昭和48)年に東京都が購入、1977(昭和52)年に「清澄公園」として開園した。写真は現在の「清澄公園」で、手前に貯木場、正面に工場があった。
MAP __

深川区の「震災復興橋梁」

震災では、東京に架けられていた大小の橋も大きな被害を受けた。震災復興にあたり、東京市内においては、「内務省復興局」と「東京市」により、425橋が架けられ、そのうちの約半数、208橋が現在の江東区域内の橋であった。「内務省復興局」は主に幹線街路の整備に伴う橋の架け替えを行っており、深川区内においては、「隅田川」の「相生橋」「永代橋」「清洲橋」、「小名木川」の「高橋」「扇橋」、「横十間川」の「本村橋」などを担当した。写真は昭和初期の「清洲橋」。【画像は昭和初期】

写真は現在の「清洲橋」。中央区側から江東区方面を撮影している。
MAP __

「東京市」は主に補助線街路の整備、および「帝都復興区画整理」に伴う架橋・架け替えを担当した。深川区内では、補助線街路整備に伴う橋として、「小名木川」の「萬年橋」「西深川橋」「小松橋」、「仙台堀川」の「亀久橋」「木更木橋」「上之橋」、「横十間川」の「大島橋」「清水橋」、「平久川」の「平久橋」「鶴歩橋」など約80橋、区画整理に伴う約40橋など、多くの架橋が行われた。写真は「高橋」から見た「西深川橋」(1930(昭和5)年竣工)。 MAP __【画像は1930(昭和5)年】

写真は現在も当時の姿で残る「西深川橋」。このほかにも、江東区内には多くの震災復興時に架けられた橋梁が残り、地域の交通を支えている。

深川区の「震災復興小学校」と「震災復興小公園」

「関東大震災」では多くの小学校も罹災したため、「東京市」は復興事業の中で、1924(大正13)年度から1930(昭和5)年度の7年間に、117校もの「震災復興小学校」を建設した。校舎は耐震・耐火性の強い鉄筋コンクリート造りで、デザインは時代の先端とされたドイツ表現主義の影響を受けたものが多かった。また、「復興小学校」のうち52校には「震災復興小公園」も併設され、防災の拠点としての役割も担った。深川区には15校の「復興小学校」が建設され、うち7校(元加賀、八名川、深川(公園名は森下)、臨海、東陽、扇橋、川南)に「復興小公園」が併設された。写真は「元加賀小学校」で、手前が「元加賀公園」。「元加賀小学校」は1907(明治40)年の創立で、この「復興小学校」の建物と「元加賀公園」は1927(昭和2)年に竣工した。
MAP __【画像は昭和初期】

写真は現在の「元加賀公園」(手前)と「江東区立元加賀小学校」(奥)で、公園には竣工当時の壁泉などが残る。校舎は1974(昭和49)年に建て替えられた。

「東京大空襲」で大きな被害を受けた深川区・城東区

深川区・城東区(現・江東区)は、「東京大空襲」で区内のほぼ全域が焼失し、3万人以上の死者が出るという大きな被害があった。図は「東京大空襲」など戦災での焼失区域を示した『戦災焼失区域表示 帝都近傍図』の江東区域部分。1947(昭和22)年発行の版で、同年、深川区と城東区が合併し江東区が誕生しており、この地図にも江東区と記載されている。黄色い着色が焼失区域、緑色の部分が建物疎開区域となる。【図は1947(昭和22)年】

江東区における露店の整理

戦後、東京の街の大通り沿いなどに露店(ヤミ市)が多く立ち並び、復興期の住民の生活を支える存在となった。旧・深川区内では、門前仲町、東陽町、森下町の各電停周辺に、旧・城東区では「亀戸駅」周辺に見られた。復興が進むと、都内各所にできていた露店は、秩序の悪化や道路の占拠など弊害が取り沙汰されるようになり、1949(昭和24)年、「GHQ」は交通・防災・衛生・美観上の理由から都内の公道の露店を撤去するよう指示、翌年、「東京都建設局」内に「臨時露店対策部」が設置され、「露店整理」が進められた。

東京都は「露店整理」後も店を続けたい業者に対して、資金融資の斡旋などの対策をとり、特に、協同組合を結成し共同店舗を建設する場合は、建設資金融資のほか、都有地の提供も行った。森下町周辺では、震災・戦災の残土で埋立てられた「五間堀」跡の一部が提供され、長屋の共同店舗が建設された。
MAP __【画像は1952(昭和27)年頃】

現在、跡地はマンションなどになっている。



MAP

この地図を大きく表示



トップへ戻る