沿線の歴史散策 INDEX

「スバル」と「東武鉄道」の関係

図は1930(昭和5)年頃発行の『東武電車 沿線案内』のうち、「太田駅」から「伊勢崎駅」までの区間を切り出したもの。

東武鉄道は1909(明治42)年に「足利町駅」(現「足利市駅」)から「太田駅」まで、1910(明治43)年3月に「新伊勢崎駅」、同年7月に「伊勢崎駅」まで延伸し、現在の東武伊勢崎線がほぼ全通した。

太田は地域の経済の中心地として発展した町。江戸期には「日光例幣使街道」の宿場町としても賑わい、明治期に入ると「新田郡役所」も置かれた。産業は農業や養蚕、織物業が中心であった。町の北側、「金山」南麓の「大光院」は、江戸初期に徳川家康が呑龍(どんりゅう)上人を招いて創建した寺院。上人は近郷の貧しい家庭の子どもなどを弟子として育てたことから、のちに「子育て呑龍さま」として篤い信仰を集め、門前は参拝で賑わった。

大正初期、「東武鉄道」社長の根津嘉一郎氏は歴史ある太田の地に博物館を計画。根津氏が理事長を務めていた「東京米穀商品取引所」の改築(1915(大正4)年完成)の際、旧建物の洋館を「大光院」前へ移築し太田町へ寄贈した。1917(大正6)年、海軍出身の中島知久平氏は出身地の尾島町(現・太田市押切町)に「飛行機研究所」を設けたが、拡張にあたりこの洋館の借用を希望、所有する太田町の町長と共に寄贈者の根津氏へ相談すると快諾され、同年中に移転した(のちに購入)。ここを拠点に「中島飛行機製作所」が発展し航空機(特に軍用機)の国産化へ貢献した。

終戦後「GHQ」占領下になると航空機製造は禁止され「中島飛行機製作所」は解体されたのち、「富士重工」(現「SUBARU」)となり「スバル360」の成功などで国内有数の自動車メーカーへ成長した。現在、太田市は北関東最大の工業都市となっており、市内・周辺には自動車関連をはじめ、さまざまな工場が集積している。

1919(大正8)年頃の「日本飛行機製作所」 1919(大正8)年頃の「日本飛行機製作所」で、写真中央が「東京米穀商品取引所」から移築された洋館。この敷地一帯はのちに「呑龍工場」となり、現在は「SUBARU 群馬製作所 太田北工場」。
現在の「伊勢崎駅」 現在の「伊勢崎駅」。2013(平成25)年に高架化された。

伊勢崎は古くから織物の産地として知られてきた街。江戸後期に厚手の絹織物「伊勢崎太織」が造られるようになり、明治期以降に「銘仙」へ発展。特に大正期から昭和初期にかけて「伊勢崎銘仙」のブランドは一流百貨店の主力商品の一つとなり、伊勢崎は全国最大の「銘仙」産地として隆盛を極めた。

このような時代や地域を背景に、「東武鉄道」は1906(明治39)年に終点の計画を足利から伊勢崎へ変更。1910(明治43)年に「伊勢崎駅」まで延伸され、現在の東武伊勢崎線が全線開通(震災後の浅草乗り入れ区間を除く)となった。

PICKUP STORY

東武「8000系」は「東武鉄道」の通勤輸送を担う主力車両として、1963(昭和38)年から1983(昭和58)年にかけて712両が製造されており、国内の私鉄の同一形式車両としては最多を誇る。

「東武鉄道」では、1963(昭和38)年にロイヤルベージュとインターナショナルオレンジのツートンカラーをまとった塗色を採用、1974(昭和49)年からはセイジクリーム一色に、1985(昭和60)年からはジャスミンホワイトの車体に青系の2本のストライプを配した塗装へと変更された。1986(昭和61)年度から内装のリニューアルや前面形状の変更などの更新工事も行われた。現在は東武野田線(アーバンパークライン)とワンマン運転の区間で運用されている。「8000系8111編成」は前面形状が変更されなかった車両で、2012(平成24)年より「東武博物館」が動態保存車両として所有し、現在はツートンカラーが再現されている。その後、イベント列車などで使用されたが、2023(令和5)年に東武野田線で営業運転へ復帰、話題となった。

1974(昭和49)年に撮影された「梅島駅」を通過する「8000系」 1974(昭和49)年に撮影された「梅島駅」を通過する「8000系」。手前の2両がツートンカラー、奥の4両がクリームの混色の編成となっている。




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