沿線の歴史散策 INDEX

「日光」「善光寺」と並ぶ場所が、京成本線沿線に?

図は『京成電車 沿線案内』のうち、京成本線「京成佐倉駅」から「京成成田駅」までの区間を切り出したもの。現在は「京成成田駅」から「成田空港駅」まで乗り入れている。

全国的に知られる『一番初めは一の宮』からはじまる手まり歌は、地方により様々なバージョンが知られるが、関東では『二は日光東照宮(または中禅寺)、三は佐倉の惣五郎(または宗吾様)、四はまた信濃の善光寺』などと続くことが多い。「日光」「善光寺」は全国的に有名な寺社であるが、「佐倉の惣五郎(宗吾様)」は、ほかに比べると有名ではないため、疑問に思う人も多いだろう。

「宗吾駅」(現「宗吾参道駅」)の周辺にその謎を解く歴史がある。

「佐倉の惣五郎(宗吾様)」とは、江戸初期の佐倉藩領公津村(現・成田市の南西部)の名主・木内惣五郎のこと。凶作や重い年貢で苦しむ「佐倉藩」の領内の農民の窮状を訴えるため、江戸に出向き四代将軍・徳川家綱への直訴を決行。訴えは受け入れられたが、「佐倉藩」は惣五郎とその子どもたちを処刑したという。

その後、江戸中期の1752(宝暦2)年、「佐倉藩」は惣五郎の名誉を回復し「佐倉宗吾様」として祀るように。江戸後期、惣五郎の義民としての伝説が狂言・歌舞伎・講釈などで人気の演目になると、処刑地で墓でもある「宗吾祠」には「成田詣」に併せて多くの参拝客が訪れるようになった。明治期になると「宗吾祠」の場所に「宗吾霊堂」が建立され、1928(昭和3)年には京成電軌に「宗吾駅」(現「宗吾参道駅」)が設けられた。

現在の「宗吾霊堂」 現在の「宗吾霊堂」。
現在の「成田山新勝寺」 現在の「成田山新勝寺」。

1925(大正14)年、「成田山新勝寺」の最寄り駅となる仮設の「成田花咲町駅」まで延伸され、東京と成田を結ぶという「京成電軌」設立時の目的を達成した。1930(昭和5)年に本設の「成田駅」まで延伸し、翌年現在の「京成成田駅」へ改称となった。写真は現在の「成田山新勝寺」で、江戸時代より江戸・東京をはじめ、全国の人々が篤く信仰する寺院となっている。

1962(昭和37)年、国は東京近郊に新たな国際空港を計画、1965(昭和40)年、候補地の中から、成田市街の5kmほど東に「新東京国際空港」(通称「成田空港」・現「成田国際空港」)を建設することが決定、激しい反対運動もあったが、1978(昭和53)年に開港した。これに合わせ、京成空港線が「京成成田駅」~「成田空港駅」(現「東成田駅」)で開業。「京成上野駅」と「成田空港駅」を結ぶ特急「スカイライナー」の運行も開始された。1991(平成3)年、「成田空港駅」は空港ターミナルビル直下へ移設となり、2010(平成22)年に京成成田空港線(成田スカイアクセス線)が開業。「スカイライナー」は成田スカイアクセス線経由となった。

現在の「成田国際空港」 現在の「成田国際空港」。

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2代目スカイライナーは、「成田空港ターミナルビル駅」(現「成田空港駅」)への乗り入れ開始に合わせ、1991(平成3)年より運用が開始された特急車両。車体は航空機を思わせる流線型デザインを採用し、カラーリングには初代AE形をベースに鳥の翼をモチーフとした意匠が施されている。本車両は、都営地下鉄線及び京浜急行線との相互直通運転に対応するため、前面に貫通扉を装備している点が大きな特徴となっている。

運行面では、1998(平成10)年11月ダイヤ改正以降、京成本線経由で日暮里~空港第2ビル駅間を最短51分で結んでいた。その後、2010(平成22)年7月に成田スカイアクセスが開通すると、「シティライナー」の名称で京成本線での運行を続けることとなった。25年にわたる活躍の末、2016(平成28)年2月に全編成が引退を迎えている。

「AE100形(2代目京成スカイライナー)」電車 「AE100形(2代目京成スカイライナー)」電車。




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