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「松戸宿」と「江戸川」「坂川」


「水戸街道」と「江戸川」の交通結節点として発達した「松戸宿」

平安時代、現在の市川市国府台付近に「下総国府」が置かれ、ここから「常陸国府」(現・茨城県石岡市)方面へ向かう官道が松戸を通っていた(ルートは諸説あり)。これが「水戸街道」の前身ともいわれる。江戸初期の1609(慶長14)年、徳川頼房が水戸藩主(のちに「徳川御三家」の一つ「水戸徳川家」と呼ばれる)となると、江戸と水戸を結ぶ「水戸街道」(「水戸道中」「浜街道」「水戸海道」などとも呼ばれた)が整備され、沿道には宿場町が設置された。「水戸街道」は「千住宿」で「日光街道」から分岐し、「新宿」(現・葛飾区)を経て「金町松戸関所」を通り、「金町・松戸の渡し」で「江戸川」を渡り、「千住宿」から数えて2番目(日本橋から数えて3番目)となる宿場「松戸宿」へ至った。松戸は元は農村であったが、宿場町の整備とともに寺社も多く建立されるなど、街としての発展を始めた。

図は1902(明治35)年に作成された「松戸町松戸略図」。左が「江戸川」で、左下に「渡船場」の文字が見える。旧「水戸街道」は渡船場から東(図では右)へ向かい、突き当りを左折する道で、図内には「国道」と記されている。旧「水戸街道」は1885(明治18)年に「国道十四号」(現・国道6号)に指定されていた。図の中央付近で国道と交差する川は「坂川」。【図は1902(明治35)年】

江戸期の「松戸宿」は「水戸街道」の渡船場のある宿場として、また街道の陸運と「江戸川」の水運が交わることから、江戸へ運ばれる鮮魚をはじめ、物流の中継地となる河岸として発達した。「松戸宿」の本陣は現在の「宮前町交差点」付近に置かれ、このあたりを中心に宿場町が広がっていた。写真左は「旧松戸宿本陣跡地」の碑で、右奥が「江戸川」の堤防となる。
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江戸末期の1839(天保10)年には、「松戸宿」に対岸の金町村から分家した中山家が、呉服店「葛西屋」を創業している。屋号は金町の鎮守「葛西神社」から名付けられたという。「葛西屋」は明治期以降も呉服店として発展を続けた。写真は1930(昭和5)年頃の「葛西屋呉服店」。前列和服の男性が三代目・中山澤次郎氏。
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中山澤次郎氏の名前は前掲の1902(明治35)年の地図でも確認できる。右の「ステーション」とある場所が「松戸駅」。【図は1902(明治35)年】

「葛西屋呉服店」は戦後もこの地で営業を続け、松戸の人口が急増した昭和30年代頃は家具の販売も行っていた。【画像は昭和30年前半頃】

現在の店舗は1969(昭和44)年に建設されたもの。「葛西屋呉服店」は、現在もこの地で七代目店主が暖簾を守ると共に、老舗として「松戸宿」からの歴史を今に伝えている。

明治末期まであった「金町・松戸の渡し」 MAP __

「水戸街道」の金町と「松戸宿」の間は「金町・松戸の渡し」で結ばれていた。江戸期はもちろん、明治期に入っても架橋されていなかったが、明治末期の1911(明治44)年になり、松戸周辺の「江戸川」では初めての橋となる「葛飾橋」が、ここに架橋された。写真は明治後期、金町側から望んでおり、中央奥が「松戸宿」の渡船場で、その右の建物が船問屋の「梨本太兵衛家」。【画像は明治後期】

「金町・松戸の渡し」は、少し北にあった「小向の渡し」に対して、「大向の渡し」とも呼ばれた。写真は現在の金町側から松戸方面を望んでいる。現在、このあたりの「江戸川」の河川敷は両岸(特に金町側)が大きく拡幅されており、堤防間は500m以上あるが、渡しがあった頃の川幅は100mほどであった。

江戸期の「金町・松戸の渡し」を降りた所、「松戸宿」の江戸側の入口には、「御料傍示杭」が建てられていた。写真は再現されたもので、江戸期に「御料傍示杭」に書かれていた文言は不明であるが、推定により「是より御料松戸宿」と記されている。

江戸に運ばれる鮮魚が通った「鮮魚街道」

「鮮魚(なま)街道」(「なま」は「鱻」とも表記された)は、銚子の港に揚がった鮮魚を江戸に運ぶ際、輸送時間短縮のためショートカットに利用された陸路の通称。当初(江戸前期頃)は「木下(きおろし)河岸」と行徳を結ぶ「木下街道」が利用されていたが、享保の頃(1730年前後)から、途中に渡河が少ない「布佐(ふさ)河岸」と「松戸河岸」を結ぶ「松戸街道」が主に利用されるようになった。

銚子の港に揚げられた鮮魚は、その日の夕刻、船で銚子を出て「利根川」を遡って運ばれ、2日目の未明に「布佐河岸」で一旦陸上げ。ここから陸路「松戸街道」を馬で運び、2日目昼までに「松戸河岸」へ到着。再び船に載せ替えられ「江戸川」「新川」「小名木川」を経て、2日目夜までに日本橋へ運ばれ、3日目の朝には「魚河岸」に並べられた。「利根川」と「江戸川」が分岐する関宿を経由すれば全て水路で運ぶこともできたが、陸路「鮮魚街道」を使うことで所要は1日短縮され、より新鮮な状態で届けることができた。

図は元禄期(1700年前後)に作成された『元禄国絵図』の「下総国」の一部に「鮮魚街道」(「松戸街道」)の布佐(我孫子市布佐地区、図右端)から松戸(図左端)までのおおよそのルートを黄色の線で追記したもの。浦部村(現・印西市浦部地区)、富塚村(現・白井市富塚地区)、藤ヶ谷村(現・柏市藤ヶ谷地区)、佐津間村(現・鎌ケ谷市佐津間地区)などを通っていた。【図は元禄期】

「松戸河岸」の船問屋は、「納屋河岸」(「良庵河岸」とも呼ばれた)の青木源内家と「渡船場河岸」(「下河岸」とも呼ばれた)の梨本太兵衛家の2軒が中心であった。写真はかつての「納屋河岸」の前に設置されている「鮮魚街道」の案内標。
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「江戸川」の舟運の拠点でもあった松戸

「江戸川」の舟運は、明治期以降も東京へ北関東の農産物などを大量・廉価に運ぶ手段として重用された。当初は一枚帆の和船、明治末期になると汽船による曳船も用いられるようになり、都市部から肥料となる屎尿(しにょう)の輸送も盛んになった。1911(明治44)年、「納屋河岸」の船問屋・青木源内家は「江戸川曳舟汽船株式会社」を設立、曳舟による輸送は活況を呈したが、この頃から鉄道貨物輸送やトラック輸送が盛んになっていったこともあり、1917(大正6)年に廃業となった。

1874(明治7)年、船問屋の梨本太兵衛家・青木源内家は、明治政府の主導で設立された「陸運元会社」(翌年「内国通運株式会社」へ改組、現「日本通運」)へ加わり、その分社となった。明治前期の統計では、県内の「江戸川」の河岸において、松戸は最大規模を誇っていた。図は前掲の「松戸町松戸略図」の一部を拡大したもので、「江戸川」沿いに「梨本太兵衛」「青木源内」の名前が見える。【図は1902(明治35)年】

「内国通運」は1877(明治10)年、「江戸川」など「利根川」水系に定期貨客船「通運丸」の運行を開始、「松戸寄航場」は「金町・松戸の渡し」の渡船場付近、「渡船場河岸」にあった船問屋・梨本太兵衛家の場所に置かれた。写真は1918(大正7)年頃、初代「葛飾橋」から撮影した「松戸寄航場」。
MAP __【画像は1918(大正7)年頃】

「利根川」水系の定期貨客船「通運丸」による舟運は、明治後期になると鉄道網の発展に伴い衰退を見せ、1919(大正8)年、「内国通運」は「通運丸」の事業から撤退。船舶や航路は「東京通船」が引き継いだが、長くは続かず昭和初期までに廃止された。図は昭和初期、「東京通船」発行の『汽船航路案内』のうち、「松戸寄航場」を中心とする部分。地名を囲っている赤い円が起終点、三角が中継所、黒い円が寄航場となる。

両国・高橋を出て「小名木川」を通り、行徳より「江戸川」を遡り市川・松戸など経て、深井の中継所より「江戸川」をさらに遡り、関宿から「利根川」の上流に向かう「上川航路」と、深井の中継所から「利根運河」に入り「利根川」下流に向かう「下川航路」が運航されていた。【画像は昭和初期】

河岸から遊郭となった「平潟」

江戸中期までの「江戸川」は「松戸宿」の北で東に大きく湾曲していた。この部分には「平潟(ひらかた)」と呼ばれた干潟が広がり、船着場や「本河岸」が置かれた。「平潟」沿い、自然堤防上には船宿などが建ち並び、1626(寛永3)年には旅籠で飯盛女(私娼)の営業も許された。

図は1834(天保5)年頃に描かれた『江戸名所図会 松戸の里』。左から右奥に描かれている「江戸川」は、1731(享保16)年頃に直線的に改修されており、右手前の水路が旧「江戸川」となる。旧「江戸川」の南(図では下側)が「本河岸」、北(図では上側)には「樋の口(ひのくち)」(樋ノ口・樋野口とも表記される)の地名が見える。樋野口は「江戸川」右岸側にあった村名で、改修により分断され、一部が左岸側にも残ることとなった。明治に入っても埼玉県の飛び地であったが、1905(明治38)年に千葉県に移管された。「江戸川」の改修後、河岸は下流の「納屋河岸」に移るが、「平潟」は引き続き船宿などで賑わった。【図は1834(天保5)年頃】

飯盛女(私娼)がいた「平潟」の旅籠は、明治期に入ると「平潟遊郭」となり、戦後は「赤線」として営業を続けたが、昭和30年頃より、一部は司法試験の受験生のための研究室・学生寮となった。写真は「平潟遊郭」の経営者が寄進した天水桶などが残る「平潟神社」。現在、周辺は閑静な住宅地となっている。
MAP __(平潟神社)

写真は昭和30年代の「池田弁財天」。江戸末期、「平潟」の遊女が難病の性病治癒を祈願すると全快したという。この伝説から、病を持つ多くの人々が信仰するようになり、治癒するとお礼参りに鳥居や絵馬の奉納などが行われるようになった。
MAP __(池田弁財天)【画像は昭和30年代】

現在の「池田弁財天」の入口付近。現在も多くの鳥居が奉納されており、篤い信仰があることがわかる。

現在の「池田弁財天」の境内。周囲にあった池は埋め立てられているが、境内に小さい池が設けられている。

松戸の総鎮守「松戸神社」 MAP __

「松戸神社」の社殿は「水戸街道」や「松戸宿」が整備された頃である1626(寛永3)年の創建といわれる。松戸の総鎮守であり、水戸徳川家からも篤く崇敬された。かつては「御嶽社」と呼ばれていたが、1882(明治15)年に「松戸神社」へ改称し現在に至る。写真は昭和30年代の「松戸神社」で、「坂川」に架かる「潜龍橋」は1953(昭和28)年に架け替えられたもの。【画像は昭和30年代】

2010(平成22)年には松戸市出身で「松戸神社」の氏子でもある山崎直子宇宙飛行士が、「四神お守り」を携え「国際宇宙ステーション」へ飛び立ち、任務を果たしている。 写真は現在の「松戸神社」と「潜龍橋」。

農民のための渡しであった「矢切の渡し」

江戸時代、「水戸街道」が「江戸川」を渡る地点、「金町・松戸の渡し」の金町側にあった「金町松戸関所」では、「入鉄炮」「出女」が厳重に取り締まられたが、「金町・松戸の渡し」より3kmほど下流、地元の農民のために設けられた「矢切(やきり)の渡し」(現在の松戸市矢切と東京都葛飾区柴又を結ぶ)では関所を通らずに往来することができた。「金町・松戸の渡し」の700mほど上流、「納屋河岸」付近には「小向の渡し」もあった。図は江戸後期の1817(文化14)年に村尾嘉陵が著した『江戸近郊道しるべ 小金の牧道くさ』より。図内右が「矢切の渡し」、中央が「松戸の渡し」、左が「小向の渡し」となる。図の注釈に『松戸の渡しは女通さず 矢切の渡しと小向の渡し 内証渡しにて女を渡す也』と読める記述があり、「矢切の渡し」と「小向の渡し」では女性も利用していたことが窺える。【図は江戸後期】

「矢切の渡し」は、現在、東京近郊で唯一定期的に運行されている渡しとなっている。歌人・伊藤左千夫が1906(明治39)年に発表した純愛小説『野菊の墓』では「矢切の渡し」の船着き場が別れの場所として描かれている。また、歌手の細川たかし氏などにより歌われた演歌の『矢切(やぎり)の渡し』では、男女が柴又から下矢切へ渡り、見知らぬ地へ向かう愛の逃避行が描かれている。
MAP __(矢切の渡し)

写真は下矢切の高台にある公園「野菊苑」の展望台から「江戸川」方面を望む。現在の「矢切の渡し」の船着き場は写真左手奥にある。下矢切の「西連寺」には、1965(昭和40)年「野菊の墓文学碑」が建立され、1972(昭和47)年、隣接地に「野菊苑」が開園。翌1973(昭和48)年には「野菊の墓文学碑」と「野菊苑」を結ぶ観光歩道橋も整備された。
MAP __(野菊の墓文学碑)MAP __(野菊苑)


「坂川」の歴史

1898(明治31)年、松戸に完成した「小山樋門」

1898(明治31)年、松戸に完成した「小山樋門」。三連アーチ構造の煉瓦造りとなっている。
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1903(明治36)年、下矢切に完成した「柳原水閘」

1903(明治36)年、下矢切に完成した「柳原水閘」。四連アーチ構造の煉瓦造りで、2007(平成19)年に近代化産業遺産に認定された。
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「坂川」は、「江戸川」の東に位置し、「下総台地」の湧水を集める河川。もともと「坂川」一帯は低湿地であったが、江戸時代になり「江戸川」の改修や新田開発が行われ、農地となった。「坂川」は水運や農業用水・排水に利用され、流域の人々の生活を支えた。しかし、大雨で「江戸川」が増水すると排水が悪くなり、内水氾濫を起こしやすかった。「坂川」の川名も、増水時に逆流する「逆川」から転じたともいわれる。江戸中期以降、排水のための開削や圦樋の設置が進められ、江戸末期の1836(天保7)年には、「江戸川」との合流地点を馬橋付近から下流の下矢切に移すための開削工事も行われた。この工事は、「松戸宿」をはじめ下流の村々の反対が強く、最初の訴願より56年もの歳月を要した。

明治期にも治水対策は進められ、1898(明治31)年には松戸に「小山樋門」が、1903(明治36)年には下矢切に「柳原水閘」が建設された。1909(明治42)年には、樋野口に当時「江戸川」水域で最大の能力を誇る排水機場が造られたことで、翌年、東日本一円を襲った「明治43年の大水害」の時は、松戸は被害を免れた。しかしその後、昭和戦前期、さらに戦後にも内水氾濫があり、排水対策は強化されていった。
MAP __(樋ノ口排水機場)

1954(昭和29)年の「坂川」

写真は1954(昭和29)年の「坂川」の様子。この区間の「坂川」は江戸末期に開削された。中央奥に見える洋館は1900(明治33)年創業のシャツ製造販売の老舗「小松號」。
【画像は1954(昭和29)年】

現在の「坂川5号橋」

写真は現在の「坂川」で、手前の橋は「坂川5号橋」。奥の橋は「NTT東日本」の「春雨専用橋」で、「電電公社」時代の1975(昭和50)年に架橋されている。この区間の「坂川」は、1998(平成10)年以降、「ふれあい松戸川」の完成により、逆(北)方向(写真では手前から奥)へ流れるようになった。
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昭和30年代以降、流域の人口増加もあり、「坂川」は水質が著しく悪化。この対策の一つとして、1998(平成10)年に人工河川「ふれあい松戸川」が完成した。これは、「小山可動堰」の上流側の「坂川」の河川水を逆流させる形で「古ヶ崎浄化施設」に集め浄化、「江戸川」の河川敷に設けた人工河川「ふれあい松戸川」を経由し、「小山可動堰」の下流側より再び「坂川」へ戻す仕組みとなっている。
MAP __(小山可動堰)MAP __(古ヶ崎浄化施設)



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※本ページでは、現在の松戸市一帯を対象としている。
 現在の「江戸川」は、江戸時代は主に「利根川」と呼ばれていたが、本ページでは「江戸川」と表記している。
 特に明記していない場合、「戦前」「戦時中」「終戦」「戦後」「戦災」の戦争は「太平洋戦争」のことを示している。



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