写真でひもとく街の成り立ち

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東京都西南部における主要都市である「町田」。古くは鎌倉街道沿いの「本町田」地区が宿場として賑わい、開国後には、生糸の輸送ルートとして町田街道(『絹の道』)が利用されたことから、街道沿いの「原町田」地区が物資の中継点として繁栄した。貿易港である「横浜」との結びつきも強く、一時は神奈川県に属していた。この「原町田」地区には、横浜鉄道(現・JR横浜線)、小田急線の駅が開業、現在に至るまで町田の中心地となっている。その後も国鉄(現・JR)駅の小田急寄りへの移転、駅前の再開発が行われ、さらなる街の整備が続いた。
生糸の産地と港を結ぶ、『絹の道』を通じ横浜の居留外国人との交流もMAP 1
開国後、当時の輸出品の多くを占めていた生糸を、産地・集積地である八王子から横浜港へと運ぶルートであった町田街道は、昭和30年代頃から『絹の道』と呼ばれることとなる。当時、横浜に居留していた外国人たちは、馬を使い町田・八王子方面などへ遠乗りに出かけた。その中の一人、イタリア人ベアトが撮影した幕末頃の風景は、現在の原町田四丁目付近。現存する町田市内の写真としては最古の記録とされる。
ベアトが撮影したのは現在の原町田商店街の南端、町田街道と町田ターミナル(旧・国鉄「原町田」駅)に通じる交差点付近とみられる。
馬の仲買人として古くから『絹の道』を支えた「柿島屋」MAP 2
鉄道開通以前の『絹の道』沿いでは、荷の運送に馬を利用していた。1884(明治17)年創業の「柿島屋」は、この運送用の馬の仲買商人となった。その後、行き交う人々向けに馬肉料理を提供し評判となったことが、現在の馬肉専門店としての基礎となっている。写真は1965(昭和40)年頃のもの。
創業時の「柿島屋」は、八王子と瀬谷を結ぶ馬車の立場(馬車駅)前に位置していた(現在の小田急「町田」駅前)。現在は移転したため、創業時とは異なる場所にある。
1908(明治41)年に開業し、町田の発展を後押しした「原町田」駅 MAP 3
横浜の生糸商人らを中心に、1894(明治27)年から八王子~横浜間に鉄道を建設するための計画書が5回にわたって出願され、ついに横浜鉄道が開通したのは1908(明治41)年のことであった。写真は1980(昭和55)年に取り壊されるまで使用されていた木造駅舎。
国鉄「原町田」駅は、現在の「町田市文化交流センター」やショッピングモール「ミーナ町田」のあるあたりであった。ターミナル口改札がJR「町田」駅ホームから離れて設置されているのも、「原町田」駅の名残である。
住民らの働きかけで町田に駅を構えることになった小田急「新原町田」駅MAP 4
「鬼怒川水力電気株式会社」の経営者であった利光鶴松により1927(昭和2)年に新宿と小田原を結ぶ全長82kmの小田急線が開通。当初の計画では線路はもっと長津田寄りの予定だったが、鶴川・町田の有志らが自らの土地を提供するなど強く働きかけ、町田を通るルートが実現した。写真は昭和20年代の「新原町田」駅(現在の小田急「町田」駅)。モダンなデザインの木造駅舎が近代化の幕開けを感じさせる。
小田急「新原町田」駅は1976(昭和51)年に「町田」駅に名称変更。駅舎も大きく様変わりし、「小田急百貨店」の2階・3階部分を貫く高架駅として建設された。
小田急線と横浜線の乗り換え客が行き交った「駆け足道路」MAP 5
国鉄「原町田」駅時代には、小田急線の駅との距離が離れており、乗り換えのために約700mほどの道のりを急ぐ人も多かった。そのためこの通りは「駆け足道路」「マラソン道路」などとも呼ばれた。その後、国鉄駅の移転が実施され「町田」駅の利便性は増すことになる。写真は1980(昭和55)年4月の様子。
現在の様子。小田急「町田」駅から延びる商店街は、乗り換え客はいなくなったが、若者を中心に多くの人で賑わう。
駅前再開発の中で現在の位置に移設された 国鉄「町田」駅MAP 6
都市としての長年の課題であった国鉄横浜線と小田急線の乗り換えに関する問題は、国鉄駅が小田急駅寄りに移転することで解決。それぞれの駅の小田急側と国鉄側に出口改札を設け、その間をペデストリアンデッキ(階上歩道)で繋ぐ形で合意し1980(昭和55)年に開業した。
駅利用者を中心に、現在も一日中賑わうJR「町田」駅改札前。アーチ状の天井は当時のままだ。
昔の雰囲気が残る旧「原町田」駅前MAP 7
昭和30年代以降、鉄道・道路網が整備され、大型団地の建設も進んだ。そのため町田は東京近郊の住宅地としても注目され、人口が増加した。さらなる生活の利便性向上のため駅前の再開発計画も進められ、東京西部最大規模の都市として発展していくこととなった。写真は1980(昭和55)年の旧「原町田」駅前。右手に写る「ダイエー」は関東進出第一号店で、開店日には3,000人もの人々が集まり、1kmほどの行列ができたという。
駅前再開発を経て商業エリアは拡大されていった。1980(昭和55)年の写真に写っている「モランボン」の看板が掲げられたビルも残っている。
再開発ビルに開店した「東急百貨店」MAP 8
1980(昭和55)年10月25日、駅前再開発ビルに百貨店である「本館」と、「まちだ東急スポーツ館」の2館から構成される「東急百貨店」が開店。写真はオープン当時の様子である。
東急百貨店は、現在「町田東急ツインズ・イースト/ウェスト」として営業。東急に限らず、駅前の各ショッピングビルは時代の変化に合わせてリニューアルを繰り返し、活気ある街作りに寄与し続けている。
商業地としての礎が戦後の生活を支えたMAP 9
1944(昭和19)年、激化する太平洋戦争の中で「二・六の市」は360余年の歴史に幕を閉じた。終戦後は、いくつかの店舗がまばらに営業している程度となる。しかし、町田の地が戦災を免れたこと、そして商業地としての礎があったことにより、いち早く敗戦からの再興を果たした。写真は1945(昭和20)年頃の原町田の様子。
戦争を生き抜いてきた商店の中には、今なお町田の暮らしを支えている店もある。1945(昭和20)年の写真(中央右手側)に掲載されている「開運堂」も、そのひとつ。
宿場町としての町田、鎌倉街道「小野路の宿」MAP 10
鎌倉街道は武蔵の国府であった府中と鎌倉とを結ぶ重要な街道であり、この通り沿いに位置する「小野路の宿」もまた、江戸時代を中心に宿場町として賑わいを見せた。写真は昭和27、8年頃の小野路の様子。
水の流れる側溝や板塀など、当時の景観は現在も保存されている。2013(平成25)年には「小野路宿里山交流館」もオープンした。
昭和30年代からの団地建設により大きく様変わりした町田郊外 MAP 11
住宅地としての町田の発展に伴い、町田郊外の地区でも大型集合団地の建設が進められた。昭和30年代の後半に「高ヶ坂団地」が誕生したのを皮切りに、森野、木曽、鶴川といった地区に次々と大型団地が登場する。写真は1968(昭和43)年8月、建設中の「境川団地」の様子。この年から「境川団地」の入居が始まった。
川沿いの穏やかな環境が特徴である「境川団地」。「古淵」駅から徒歩圏内であるうえ、「町田」駅や「淵野辺」駅からもバス利用でアクセスしやすい。
「学園村」構想により発展する「玉川学園」エリアMAP 12
小田急線の開通は1927(昭和2)年で、このときに町田・鶴川間に駅は存在しなかった。「玉川学園前」駅の開業は1929(昭和4)年4月で、学園と駅はほぼ同時に出発したのである。写真は1930(昭和5)年頃の駅舎の様子。
現在の「玉川学園前」駅には、各駅停車とともに準急、区間準急も停車し、朝夕は玉川学園の学生、生徒も多く利用する。駅周辺の住所は1967(昭和42)年から、正式に「玉川学園一~八丁目」となった。
『絹の道』から発展した「町田」
江戸末期以降、町田が発展した大きな理由は、『絹の道』にある。この地図は1921(大正10)年のもので、街道沿いに原町田の街が発展している。周辺には桑畑が一面に拡がっており、養蚕も盛んであったこともわかる。1908(明治41)年には横浜鉄道(現・JR横浜線)が開通しているが、その主な目的も絹・生糸の輸送のためであった。小田急線の開通は1927(昭和2)年なので、まだ地図上には見られない。
こちらは1983(昭和58)年の地図。国鉄(現・JR)の「原町田」駅は、1980(昭和55)年に小田急駅寄りに移転しており、駅名も「町田」駅となった。駅の移転とともに駅前の再開発も行われ、新しい道路も開通している。市街地も拡大しているほか、かつて桑畑だったところの多くは住宅地や団地となっており、住宅都市としての発展も見ることができる。
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※「町田街道」を『絹の道』と命名したのは八王子の郷土史家である橋本義夫氏。昭和30年代に著書などで提唱され、近年定着した名称であるが、ここでは「町田街道」の歴史的役割を端的に伝えるため、古い時代の「町田街道」についても『絹の道』と表現している。

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