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渋谷氏がかつて治めていた地


渋谷氏、金王丸ゆかりの「金王八幡宮」 MAP __

渋谷氏の先祖である河崎基家(もといえ)は源義家の軍に300騎余を従え1番で参向し、仙北(現・秋田県)の「金沢柵(かねざわのさく)」を攻略した。その後、基家の信奉する「八幡神」の加護による勝利だと考えた義家が、1092(寛治6)年にこの地に八幡宮を勧請したのが「金王八幡宮」の始まりとなっている。渋谷氏が一帯を支配する際、ここが渋谷、青山の総鎮守となった。その後、基家の子、重家には子どもができず、夫婦でこの八幡宮で祈願を続けていると、「金剛夜叉明王(こんごうやしゃみょうおう)」が妻の胎内に宿る霊夢をみて、立派な男子を授かったといわれている。そこで、その子に明王の上下二文字から「金王丸」と名付け、その後、「金王丸」の名声により、この地は「金王八幡宮」と呼ばれるようになった。上図は江戸後期の『江戸名所図会』に描かれたもの。【画像は1834(天保5)年】

1612(慶長17)年に建立された神門、社殿は幾度かの修理を経て今日に至る。江戸時代前期から中期の建築様式を現在にとどめる貴重なもので、渋谷区の有形文化財に指定されている。

「姫ヶ井」の霊水を沸かした共同浴場、「弘法湯」 MAP __

現在の渋谷区神泉町付近は、古くから霊泉が湧く場所として知られていた。「姫ヶ井(ひめがい)」と呼ばれる井戸があり、江戸時代から、この霊水を沸かして村が共同浴場を運営していた。明治時代には今弘法と呼ばれる僧が「弘法湯」を開き、「森巖寺」で灸を据えた帰りに浸かると御利益があるとして有名になった。その後、付近の円山町には花街が誕生し、「弘法湯」の隣に料亭「神泉館」が併設されたことで大いに繁盛したが、1979(昭和54)年に閉業した。画像は昭和前期、「神泉館」の玄関前にあった「姫ヶ井」。【画像は昭和前期】

現在、「姫ヶ井」があった場所にはビルが建ち、1886(明治19)年建立の「弘法大師 右神泉湯道」と刻まれた道標が残されている。

「大山街道」の道筋にあった「道玄坂」 MAP __

江戸から大山に至る「大山街道」の一部で、現在は「渋谷駅」西側の町名にもなっている「道玄坂」。渋谷氏滅亡後にこの地に出没した山賊の大和田太郎道玄や、ここにあった寺院「道玄庵」など、坂名の由来には諸説ある。明治時代には「代々木練兵場」ができたことで軍人の住来も増えた。「関東大震災」後は復興にともなう開発計画によって開かれた街、「百軒店(ひゃっけんだな)」に下町の有名店が並び、戦後は、坂下にヤミ市が形成され、その後1979(昭和54)年に「ファッションコミュニティー109」(現「SHIBUYA109」)が誕生するなど、渋谷の発展と共に変化し続けている。画像は「百軒店」入口辺りから「道玄坂下」方向を向いて撮影されたもの。【画像は1930(昭和5)年頃】

「道玄坂」は「玉川通り(国道246号)」と分かれる「道玄坂上」から「渋谷駅」西口北側の「道玄坂下」まで緩やかにカーブしながら下っており、沿道には若者に人気の飲食店などが入るビルが建ち並ぶ。

「御嶽神社」に由来する「宮益坂」 MAP __(宮益坂) MAP __(御嶽神社) MAP __(美竹公園) MAP __(宮益坂ビルディング)

古くは「富士見坂」と呼ばれていた「宮益坂」。江戸時代には「大山街道」の道中最初の茶屋街が形成されていた。この地域の氏神である「御嶽(みたけ)神社」は1570(元亀元)年、大和(現・奈良県)の「金峯(きんぷ)神社」を分祭して創建された。「宮益坂」の名前は「御嶽神社」にあやかって周辺の町名を渋谷宮益町に変えたことからついたといわれている。古くは一帯の北側の地名が美竹町となった時期もあり、現在も「美竹公園」などに名称が残されている。写真はのちの「東急百貨店東横店東館」である「東横百貨店」の屋上から撮影されたもの。左側の森は「御嶽神社」で、「宮益坂」の奥には「青山学院」が写っている。【画像は昭和戦前期】

「青山通り(国道246号)」と分かれる「宮益坂上」から、「渋谷駅」東口前の「宮益坂下」まで続き、多くのビルが建ち並ぶ。右側に写るビルは、東京都が1953(昭和28)年に分譲した日本初の分譲マンション「宮益坂ビルディング」を建て替え、2020(令和2)年に完成した「宮益坂ビルディング ザ・渋谷レジデンス」。


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