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相模原の地形と近世の発展


相模原の地形と地名 MAP __(鹿沼公園)

現在の相模原市の中心部が位置する「相模原台地」は、「相模川」の形成した扇状地が隆起したもので、上から「相模原面」「田名原面」「陽原(みなばら)面」と呼ばれる3段の河岸段丘に分かれており、地元では「上段」「中段」「下段」と呼んでいる。それぞれの面の境には「ハケ」と呼ばれる段丘崖(がい)があり、傾斜地で開発が難しいことから自然も多く残る。古くからの集落は「上段」では「境川」沿いに見られるほか、「ハケ」下の湧水がある「中段」「下段」に見られる。市内の地名・坂名・通り名には「峡(はけ)の原」「はけ坂」「はけ通り」「下九沢字八ケ」「八景の棚(はけのたな)」など、「ハケ」に関連すると思われるものも見られる。

図はカシミール3D(http://www.kashmir3d.com/)で作成

台地の地下には「宙水」(ちゅうみず)と呼ばれる浅い地下水が溜まっている所があり、その上の地表面は窪地となり「〇〇クボ」「〇〇ヌマ」という地名が見られる。写真は1964(昭和39)年の「鹿沼」で、東岸から北西方面を撮影したもの。右上にある平屋の建物が「大野北分室」(現「大野北まちづくりセンター」)。【画像は1964(昭和39)年】

「鹿沼」は公園化のため一部が埋め立てられ、1973(昭和48)年に「鹿沼公園」が全面開園した。この一帯に多く見られる窪地が巨人の足跡のようであることから、「でいらぼっち」の伝説が伝えられている。現在はほとんどの窪地・沼地が埋め立てられた。

「大凧」の歴史 MAP __(相模の大凧まつり会場)MAP __(座間市大凧まつり会場)

相模原の新磯地域および座間で行われる大凧揚げは、江戸時代後期の文化・文政年間(1804~1830年)、あるいは天保年間(1830~1843年)の頃、男児の初節句を祝うために始まった。現在のように凧が大型化したのは明治期という。かつては各地区の行事として行われていたが、昭和40~50年代以降は「相模川」の河川敷で行われている。写真は1952(昭和27)年頃の座間での大凧揚げの様子。【画像は1952(昭和27)年頃】

現在大凧揚げは、相模原市では「相模の大凧まつり」、座間市では「座間市大凧まつり」として、毎年5月4・5日に「相模川」の河川敷で行われている。写真は2012(平成24)年の「相模の大凧まつり」。

江戸時代の新田開発

「相模原台地」の中でも「上段」の「相模原面」上は地下水位が低く水を得にくい土地で、「相模野」と呼ばれた原野が拡がり、集落は「境川」沿いにあるのみであった。江戸時代になると新田開発が行われ、一番古い「矢部新田」は寛文・延宝期、1670年代に開墾された。新田開発は、水田ではなく、畑地と薪炭などを作るための雑木林の開発が中心であった。上の地図では、新田の集落の周りに「畑」、さらにその周りに「楢」「松」「桑」などが記されている。新田開発の中で最も遅く、かつ大規模に行われたのが「清兵衛新田」の開発。小山村(現・相模原市緑区東橋本三丁目)の豪農、原清兵衛により始められ、1856(安政3)年までに200ha余りが開墾された。【地図は明治前期】

現在も、台地の「上段」の一部には、江戸時代以降の新田開発などで植樹された雑木林が残る。雑木林は昭和30年代以降、薪や炭が使われなくなったこともあり荒廃した。1973(昭和48)年、大沼・大野台地区の雑木林73haが「相模原近郊緑地特別保全地区」に指定され、1989(平成元)年にはその土地を市が無償で借り受け、樹林の管理を行い、市民に開放する「木もれびの森づくり事業」が開始された。写真は「相模原中央緑地」。MAP __(相模原中央緑地)

「清兵衛新田」が開墾された土地周辺では、現在も住所に「清新」と省略された形で地名が残る。「清兵衛新田」の鎮守として建立された「氷川神社」(現・相模原市中央区清新四丁目)には、1912(明治45)年に建てられた「開墾記念碑」がある。MAP __(開墾記念碑)

江戸時代の1818(文政元)年、「淵野辺新田」が開拓され、鎮守として「新田稲荷神社」が建立された。その境内にある「呼ばわり山」は、人探しに御利益のある「今熊野権現社」(現「今熊神社」)が勧請されたもので、新田開発以前からの信仰の地であった(上写真)。2005(平成17)年に通信が途絶え消息を絶った小惑星探査機「はやぶさ」は、その後通信が復活し2010(平成22)年帰還を果たしたが、当時プロジェクトマネージャであった「宇宙航空研究開発機構(JAXA)相模原キャンパス」の川口教授は「はやぶさ」が行方不明だった時、発見を祈願して毎夜のように訪れていたという。MAP __(呼ばわり山)

古くから栄えた上溝 MAP __

上溝は「相模川」の河岸段丘の「中段」、「田名原面」に位置する。八王子、橋本から上溝を経て大山へ向かう「大山道」沿いの町で、古くから人々が行き交う地であった。1870(明治3)年には生糸や繭の取引きを目的とする「上溝市場」が開設された。「溝市」とも呼ばれた毎月6回、3と7の付く日に開かれた市で、各地から多数の露店商が集まり、大変な賑わいを見せたという。大正時代には150軒ほどの商店が立ち並び、この地域の中心的商業地となった。1941(昭和16)年、2町6村の合併で相模原町が誕生するが、上溝町はその2つの町のうちの一つ(もう一つが座間町)で、「相模原町役場」も上溝に置かれるなど、合併後も町の中心地であった。 写真は国鉄(現・JR)相模線「上溝駅」へ向かう道路。奥の道路に架かる橋が相模線の線路。MAP __(相模原町役場跡)【画像は1954(昭和29)年】

現在の様子。道路は拡幅されているが、沿道には老舗やレトロな建物も所々に残り、歴史ある街であることを感じさせる。

写真は「上溝本町自治会館前広場」の一角にある、「上溝市場」の「市場開設五十年記念碑」。1919(大正8)年に建立された。MAP __


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※本ページでは、「相模原」地域として、戦前に誕生した相模原町域(現・座間市を含む)と、近年、相模原市と合併した旧・津久井郡を中心に取り上げている。



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