写真でひもとく街の成り立ち

このまちアーカイブス
鎖国から開国へと日本が大きく動いたとき、横浜はその最前線にあった。港から押し寄せたあらゆる事象を目撃し、それらを消化し、あるいは消化できずに受け流していくうち、膨大な量の記録が生じた一方で、かたちに残らないまま消えていった記憶も多いことだろう。現在、私たちの手元に残された写真や文書はその一部に過ぎない。しかし、それらに目を向け、耳を傾けながら、消失してしまった存在にも思いを馳せたい。開国から150年以上が経ち、横浜の街も、住む人も、代を重ねてきた。これらの資料が世代を超えて私たちに語りかけてくれることは決して少なくない。
横浜停車場(明治中期)
1872(明治5)年、日本で初めての鉄道路線が新橋―横浜間で正式開通した。日本初の鉄道駅となった当時の「横浜」駅は、現在のJR「桜木町」駅の辺りにあった。写真は明治中頃に作られた初代「横浜」駅とその手前にかかる「弁天橋」の眺め。左側の2階建ての建物が駅舎。その後東海道本線の路線開通に合わせて、「横浜」駅は移転を重ねた。2代目の駅舎は現在の横浜市営地下鉄「高島町」駅のそば。3代目となる「横浜」駅は関東大震災後の1928(昭和3)年に現在の場所に建てられた。
ビール産業発祥の地(明治中期)
横浜は日本で最初にビール醸造所がつくられた、ビール産業発祥の地としても知られる。写真は横浜山手の天沼(現在の諏訪町、「横浜市立北方小学校」付近)の風景。起伏が多く、水源に恵まれていたこの地で日本のビール醸造は産声をあげた。ノルウェー系アメリカ人のウィリアム・コープランドが1870(明治3)年、外国人居留区の山手123番(天沼)に「スプリング・バレー・ブルワリー」を開いたのが始まり。1875(明治8)年には日本初のビアガーデン「スプリング・バレー・ガーデン」も開設した。
三溪園(大正期)
「三溪園」は、実業家の原富太郎(雅号=原三溪)が1906(明治39)年に一般公開した横浜市中区本牧の純日本式庭園。生糸売込問屋としてのちの製糸業への道を拓いた養祖父・善三郎が1868(明治元)年頃に購入したという約5万3000坪の敷地に、「旧燈明寺三重塔」や「臨春閣」など他県から移築した古建築を配置している。園内の山荘「松風閣」からの眺めは、眼下に広がる本牧の浜を望める贅沢なものだった。原富太郎は生糸恐慌時の救済機関であった「帝国蚕糸株式会社」の社長を務めるなど日本の生糸貿易を支えたほか、関東大震災後には「横浜市復興会」の会長として私財を投じて横浜の復興を牽引した。
横浜船渠(明治29年)
開港以来、「横浜港」に寄港する国内外船舶が増え、船舶修繕などに対応する港湾関連施設の整備が必要となったため、1891(明治24)年に「横浜船渠会社」(現・三菱重工業株式会社)が設立された。写真は築造中の「第2号船渠」で、1897(明治30)年に竣工。日本に現存する最古の民営石造ドライドックとされる。1973(昭和48)年に役目を終えて閉鎖された後、「みなとみらい」地区のランドマークとして再開発された。「第2号船渠」はイベントスペース「ドックヤードガーデン」に、「第1号船渠」は「日本丸メモリアルパーク」内で帆船「日本丸」を展示するドックになっている。
震災記念館(昭和3年)
関東大震災の翌年、震災の教訓を後世に伝えようと横浜市役所職員が働きかけて「震災記念館」が誕生した。写真は移転を重ねて1928(昭和3)年にオープンした老松町の新館。しかし、太平洋戦争開戦後、戦局の激化に伴い金属類が回収され始めると、展示そのものが困難に。1945(昭和20)年7月に休館が決定し、戦後も展示が再開されることはなかった。建物自体は1991(平成3)年まで結婚式場「老松会館」などとして利用されたが、隣接する図書館の改築に合わせて取り壊され、姿を消した。
アイスクリーム発祥の地(明治中期)
初めてアイスクリームを食べた日本人は、江戸幕府による「万延元年遣米使節」の一行と言われている。開港後の横浜の外国人居留地では外国産の氷を用いたアイスクリームが売られていたが、国産としては1869(明治2)年、中川嘉兵衛が「函館氷」の出荷に成功し、町田房蔵が馬車道で「あいすくりん」と名づけて売り出したものが始まり。写真は明治中頃のもので、客で賑わう氷水屋「元祖アイスクリム港屋」の様子。柱には「アイスクリム」の文字、のれんには屋号「美な登家」の一部が読み取れる。
野毛山貯水場(昭和戦前期)
1887(明治20)年、日本で初めての近代水道が横浜に誕生した。開港以来、都市化・近代化の進む横浜では水道の整備が必要になったことから、神奈川県がイギリス人技師を招聘して1884(明治17)年末に整備事業を開始。相模川と道志川が合流する三井(現在の相模原市緑区三井周辺)から、野毛山の浄水場までの約44㎞に渡って導水路線が敷かれ、沈殿池や貯水池を経由して市内に配水する上水道が完成した。ところが、関東大震災によって当時の施設は壊滅。写真は、震災後に再整備された「野毛山公園」内にある「野毛山貯水場」の昭和戦前期の様子。現在も災害時の緊急用飲料水の備蓄場所などに利用されている。
バビエル商会(明治19年)
横浜の開港以降、日本の重要な輸出品となった生糸。日本人の生糸売込問屋が群馬や長野など国内産地から集めてきた商品を、居留地内に商館を構える外国商人が買い取って輸出していた。この銅版画は1886(明治19)年発行の「日本絵入商人録」に掲載されたもので、外国商人のなかでも生糸取引の業績でトップを争っていたスイスの「バビエル商会」の商館の様子。「横浜開港五十年史」には、「バビエル商会」と「生糸売込商組合」との紛争についての記述があり、居留地では日本商人と外国商人との取引上のトラブルが少なくなかったことが窺える。
被災した「横浜税関」(大正12年)
1923(大正12)年の関東大震災は、横浜の貿易施設にも甚大な被害をもたらした。写真は震災後に廃墟と化した「横浜税関」。正門の周りには被災者のための屋台が並んでいる。背景に霞んで見えるのが「大さん橋」。沖合には旧日本海軍の巡洋艦も停泊している。この写真が撮影された当時の「横浜税関」は、現在の「象の鼻パーク」辺りにあった。震災によって倒壊した後、仮庁舎を経て、1934(昭和9)年に隣接地に新築移転。以降、横浜のランドマークのひとつ「クイーンの塔」として人々に親しまれるようになった。

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