写真でひもとく街の成り立ち

このまちアーカイブス
鎖国から開国へと日本が大きく動いたとき、横浜はその最前線にあった。港から押し寄せたあらゆる事象を目撃し、それらを消化し、あるいは消化できずに受け流していくうち、膨大な量の記録が生じた一方で、かたちに残らないまま消えていった記憶も多いことだろう。現在、私たちの手元に残された写真や文書はその一部に過ぎない。しかし、それらに目を向け、耳を傾けながら、消失してしまった存在にも思いを馳せたい。開国から150年以上が経ち、横浜の街も、住む人も、代を重ねてきた。これらの資料が世代を超えて私たちに語りかけてくれることは決して少なくない。
洲干(しゅうかん)弁天社 MAP 1
「州干弁天社」の一の鳥居から二の鳥居に向かう参道。二の鳥居をくぐって太鼓橋を渡り、さらに三の鳥居の先に本殿があった。(江戸末期)
現在の弁天通りを馬車道との交差点から見た風景。
横浜が開港地として発展していく過程で、姿を消したもののひとつに「洲干弁天社」が挙げられる。1869(明治2)年に現在の羽衣町に移転して「厳島神社」と改称する以前、同神社は弁天通五丁目から六丁目辺りに広がる細長い砂州上に敷地を有し、開港後には開港場の玄関口として栄えた。左の写真は江戸末期にイギリス人の写真家ベアトによって撮影されたもので、弁天社の一の鳥居からの眺めだと思われる。残念ながら現在では弁天通りや「弁天橋」といった名前からかつての位置を想像できるくらいで、移転後の社殿にも往時の面影は残っていない。 右の写真は現在の弁天通り。
神奈川宿 MAP 2
1863(文久3)年に歌川国貞(三代豊国)によって描かれた浮世絵「東海道神名川(御上洛錦繪)」。中央にある2階建ての建物が料亭「さくらや」。
現在の横浜市神奈川区台町を通る旧東海道。
「神奈川宿」は「東海道五十三次」の3番目の宿場。左の浮世絵は、歌川国貞(のちの三代豊国)によって描かれた「東海道神名川(御上洛錦繪)」。大名行列に平伏す町人たちの姿が描かれる一方、「さくらや」と書かれた料亭の2階では海を眺める人々の姿も。「さくらや」は1863(文久3)年に「田中家」となり、現在も同じ場所で料亭を営業している。右の写真は、かつて茶屋が並んでいた「神奈川宿」の台町付近。現在はマンションが建ち並ぶが、左手中央にある「田中家」の佇まいがかつての宿場町の面影を感じさせる。「田中家」では、幕末の志士であった坂本龍馬の妻、お龍が勝海舟の紹介で働いていたとも言われる。
黒船来航 MAP 3
ハイネ作「ペリー提督・横浜上陸の図」(1855(安政2)年制作)。整然と並ぶ兵士たちの後ろには、集まった大勢の住民の姿が見える。
今日まで横浜の歩みを見守ってきた日本大通り。“歴史の証人”玉楠は、今も右手の「横浜開港資料館」の中庭に。
853(嘉永6)年7月の黒船の浦賀来航から半年後、米国のマシュー・ペリー提督率いる船隊が再び浦賀沖に現れ、1854(嘉永7)年3月には横浜に上陸した。左の絵はペリー提督一行に同行して横浜上陸の様子を記録したヴィルヘルム・ハイネのリトグラフ。絵の右側に見える神社は「水神社」、その背後の木は玉楠(たまくす/タブノキの別称)。この玉楠は関東大震災で焼けたものの、再び枝葉を伸ばして現在も「横浜開港資料館」の中庭に生い茂っている。右の写真は日本大通りから「大さん橋」と海を望む現在の写真。
大さん橋 MAP 4
「横浜港」の第一期築港工事で完成した「鉄桟橋」。開港から30年以上が経過してようやく完成し、ここから拡張を重ねていった。(1910年代)
「神奈川県庁」本庁舎の展望台から撮影した現在の「大さん橋」。
「大さん橋」の前身は、開港後の最初の築港工事として着工し、1894(明治27)年に竣工した「鉄桟橋」。左の絵葉書は当時の「鉄桟橋」の風景。「鉄桟橋」以前には「イギリス波止場」と呼ばれていたが、昭和戦前期には「メリケン波止場」と呼ばれるようになったという。2002(平成14)年に完成した現在の「大さん橋」のターミナルは、3万トンクラスの客船なら4隻、「飛鳥II」や「ダイヤモンド・プリンセス」などそれ以上のクラスなら2隻が同時に着岸できる。国外・国内の大型客船が行き交うほか、「横浜港」を一望できる屋上デッキは横浜の代表的な観光スポットにもなっている。
横浜税関 MAP 5
税関の手前には、たくさんの荷を収めた上屋が見える。その手前の波止場には、何かの作業のためか、人々が集まっている。(明治後期)
開港150周年を記念して整備された「象の鼻パーク」の広場辺りを望む。
左の絵葉書は明治後期に作られたもので、関東大震災前まで日本大通りの突き当たりにあった「横浜税関」の海側からの眺め。シンボリックな尖塔は、海からやってくる人々にとっての目印だった。1885(明治18)年に竣工したこの建物は、現在の「横浜税関」にある「クイーンの塔」同様、特徴的なドームを冠している。右の写真は「象の鼻防波堤」からかつての税関跡地の方向を望む風景。左の絵の税関のドームと同じ辺りに塔が見えるが、これは税関ではなく、「神奈川県庁」本庁舎の「キングの塔」である。
英仏駐屯軍撤退 MAP 6
1875(明治8)年7月発行のフランスの絵入り週刊誌『Le monde illustre』に掲載された、英仏駐屯軍撤退の様子を描いた絵。周りには見物に押し寄せる居留民や日本人の姿。
現在の堀川の上には、1984(昭和59)年に建設された首都高速神奈川3号狩場線が走っている。
江戸幕府は1859(安政6)年に横浜を開港したものの、国内には攘夷派が跋扈(ばっこ)し、外国人襲撃事件も多発していた。そんな中で起きた生麦事件などの攘夷事件を背景に、1863(文久3)年からイギリス・フランス両国が自国軍を横浜に駐屯させて居留地の防衛を行った。左の絵は、明治政府による居留地の管理・整備が進んだことなどを受け、1875(明治8)年に両軍が撤退する風景。山手と山下の間の運河、堀川に架かる「谷戸橋」を両軍軍隊が渡っている。かつて「谷戸橋」のあった場所に、現在は歩道橋の「フランス橋」が架かり、現在の「谷戸橋」はその少し上流に架かっている。
本町通り MAP 7
本町通りには絹織物商の椎野正兵衛らも店を構えていた。(明治後期~大正期)
現在の本町通り。「本町一丁目」交差点から日本大通り方面を望む。
開港当初の横浜では、「神奈川運上所」(「横浜税関」の前身)が置かれていた現在の日本大通りを境に、桜木町寄りが日本人居住地、元町寄りが外国人居留地として割り当てられていた。日本人居住地の本町通りでは、横浜本町一丁目(現在の本町四丁目)で「三井屋」が営業するなど、有力商人の店が軒を連ねた。明治後期~大正期に撮影された左の写真で屋根に大鷲をのせている店は「サムライ商会」という骨董商。主人の野村洋三は「ホテルニューグランド」のオーナーでもあり、横浜商工会議所の会頭も務めた。奥に見えるドーム状の屋根の建物は「横浜郵便局」(現在の「横浜港郵便局」)。
フェリス女学院 MAP 8
当時の山手は派大岡川に架かっていた「吉浜橋」からよく見えた。 撮影時期は1888(明治21)年~1900(明治33)年頃。
かつての「吉浜橋」の位置から撮影。高架を走る高速道路によって、山手はほんの一部しか望めなくなった。
日本における初期の女子教育機関として横浜山手に開設された「フェリス女学院」。創設者は米国人宣教師のメアリー・E・キダー。「フェリス」とは、キダーを日本に派遣したアメリカ改革派教会外国伝道局総主事の名。開学当時は「キダーさんの学校」と呼ばれていたが、1875(明治8)年、山手178番に校舎を新築した際に、キダーの活動を支えたフェリス父子を称え「フェリス・セミナリー」と名づけられた。左の写真は派大岡川に架かる「吉浜橋」辺りから「フェリス女学院」の遠景をとらえたもの。右の写真は同じ場所から撮影したが、高速道路が建設されたため同校の建物はほとんど見ることができない。
ゲーテ座と公衆電話 MAP 9
右手前の建物が「ゲーテ座」。1900年代の撮影と思われる。
「ゲーテ座」の跡地に建てられた「岩崎博物館」。
左写真のうち、右手前の洋館は1885(明治18)年に横浜山手にオープンした「ゲーテ座」。名前の「ゲーテ」は「陽気な(Gaiety)」という英語が由来。外国人居留地で娯楽を望む外国人のために、演劇からオペラ、音楽、手品、バレエまで演じられた。かつての劇場跡地の一部には、「岩崎学園」が創立50周年を記念して1980(昭和55)年に開設した「岩崎博物館」が、当時の面影を残して建っている。また、左写真の左側に見えるのは、横浜の中でも初期に設置された公衆電話。
ホテルニューグランド MAP 10
関東大震災からの復興でオープンしたのは「ホテルニューグランド」だけではない。目の前の「山下公園」も同時期に整備された復興の象徴。(昭和戦前期)
横浜生まれの作家、大佛次郎が執筆にいそしんだ部屋や、ダグラス・マッカーサーが宿泊した部屋が現在も残されている。
「山下公園」の向かいに建つ「ホテルニューグランド」は1927(昭和2)年の開業。1873(明治6)年から外国人旅客をもてなしてきた居留地20番の「グランドホテル」が関東大震災で倒壊・閉鎖した後、横浜の財界人らによって復興のシンボルとして山下町9番地に建設された。このホテルの厨房で、日本の洋食文化の人気メニューとなる「ナポリタン」「ドリア」「プリン・ア・ラ・モード」などが生み出された。左の写真は昭和の戦前期に撮影されたもの。その建物は当時のまま残り、今も各国各地からの旅客をもてなしている。本館の隣には、1991(平成3)年に新館「ニューグランドタワー」も完成した。
印刷技術を支えた横浜華僑 MAP 11
居留地60番辺りの様子を描いたリトグラフ。1885(明治18)年~1894(明治27)年に制作されたものと思われる。
現在の「中華街東門」交差点から山手方面を望む。写真の右手には「中華街」が広がっている。
外国人居留地だった山下町には、欧米諸国とともに中国からも華僑の商人や職人が居住した。開港期に横浜での英字新聞発行などの印刷技術を支えたのは、中国ですでにアルファベット印刷の経験を持つ華僑系の人々だった。左のリトグラフの「BIBLE HOUSE」の隣に「CHE SAN BROS」と見えるのは、馮紫珊(フウ・シサン)の「致生印刷店」。梁啓超(リョウ・ケイチョウ)が主筆を担った「新民叢報」の編集・発行を行っていた。場所は居留地60番に当たる。右の写真は現在の同じ場所で、撮影地点のすぐ右には「中華街」への入り口となる「朝陽門」がある。
神奈川停車場 MAP 12
左側が「神奈川」駅の駅舎。駅舎の手前に止まっているのは「横浜市営電車」。(明治後期)
かつて「神奈川」駅があった辺り。現在、周辺には学習塾などが並んでおり、駅の面影は見られない。
現在の「東神奈川」駅と「横浜」駅の間には、昭和初期まで「神奈川」駅(停車場)があった。左の絵葉書は明治後期のもの。当時国鉄と京急が乗り入れた「神奈川」駅の駅舎の前を、「横浜市営電車」が走っている。1872(明治5)年の開業当時、日本で2番目にできた駅だったが、その後「横浜鉄道」(現在のJR横浜線)の「東神奈川」駅が設置され、1928(昭和3)年には「横浜」駅が現在の場所に移転したことから、その必要性が薄れて廃止となった。右の写真はかつての「神奈川」駅の跡地。
根岸競馬場 MAP 13
初代の観覧席スタンドは、現在まで残る一等スタンドより小規模なものだった。(明治中期)
今も残る一等スタンド。近くで見ると、巨人のような威容が感じられる。戦後は米軍に接収され、印刷所として使用されたことも。
現在の中区根岸台及び簑沢にあった「横浜競馬場」( 根岸競馬場)は、1866(慶応2)年に外国人居留者の娯楽施設として建設された。外国人居留者による競馬施行体「横浜レースクラブ」などが主催していたが、1880(明治13)年に「日本レースクラブ」と改称して主催団体となり、日本人にも利用が認められた。同団体には西郷従道など明治期の重鎮たちが多数加入した。左の写真は明治中期に撮影された同競馬場のスタンド。現在、競馬場跡地は米軍の施設のほか、横浜市所有の「根岸森林公園」と、「日本中央競馬会」所有の「根岸競馬記念公苑」となっており、関東大震災後の1929(昭和4)年に竣工した一等スタンドが残っている。
横浜生糸検査所 MAP 14
関東大震災後に移転・新築された「横浜生糸検査所」。設計は日本の鉄筋コンクリート建築の祖とされる遠藤於菟。(昭和初期)
「横浜生糸検査所」の建物を引き継ぐ「横浜第二合同庁舎」。1995(平成7)年の大改築では、以前の外観デザインを踏襲し解体修復された。
横浜開港以来、日本の代表的な輸出品となった生糸。政府は品質管理を徹底するため、1895(明治28)年に「生糸検査所法」を公布。翌年には横浜・関内の本町一丁目1番地(現在の本町五丁目付近)に「横浜生糸検査所」を設置。以来、人々の間で「キーケン」の名で親しまれた。その後、関東大震災で被害を受け、1926(大正15)年に北仲通五丁目に移転された。左の写真は当時の面影をとどめる「横浜第二合同庁舎」を「万国橋」交差点辺りから撮影したもの。1995(平成7)年に建物の大改築と高層棟の建設が実施された。現在は「横浜生糸検査所」の役割を引き継いだ「農林水産消費技術センター」をはじめ、各省庁が入居している。
伊勢佐木町通り MAP 15
右上部に「イセビル」の「ル」の文字が写り込んでいる。その奥の建物はのちに「横浜松坂屋」となる「野澤屋」。左手には果物店「万太」の看板。(昭和戦前期)
現在の商店街「イセザキ・モール」一丁目には、「イセビル」のほか、1909(明治42)年創業の書店「有隣堂」伊勢佐木町本店などが並ぶ。
「伊勢佐木町」の町名の由来は、1874(明治7)年頃に当地の道路修造費用を寄付した「伊勢屋」中村次郎衛、佐川儀衛門、佐々木新五郎の3人の名前にちなんでいるとも言われる。左の写真はその通りの始まりに当たる「吉田橋」から伊勢佐木町の入り口を撮影した、昭和戦前期の風景。左と右の写真を比べて変わらず残っているのは、右端に僅かだが写り込んでいる「イセビル」。関東大震災で町の大半の建物が倒壊した伊勢佐木町の復興の象徴として、1927(昭和2)年に建てられ、その後の戦火も免れ、現在まで街の人々を見守り続けている。
オデヲン座 MAP 16
伊勢佐木町界隈には「オデヲン座」以外にも「喜楽座」、「賑座」、「横浜電気館」などの劇場が多くあった。(昭和戦前期)
左手奥が現在の「ニューオデオンビル」。映画館としての最終上映作品は2000(平成12)年の「プランケット&マクレーン」だった。
左の絵葉書は伊勢佐木町通りと長者町通りの交差点の角に立つ「オデヲン座」の昭和戦前期の様子。日本初の洋画封切館として知られ、「封切り」という言葉の発祥地だとも言われる。伊勢佐木町の周辺には「オデヲン座」以外にも娯楽施設が多く集まっていた。戦争を挟んだ1940~1950年代は「横浜松竹劇場」や「オクタゴンシアター」に姿を変えたが、1985(昭和60)年に再び「横浜オデヲン座」として開業。しかし観客数の減少から2000(平成12)年に閉館。建物の「ニューオデオンビル」を残して、映画館は姿を消した。現在の同ビルには量販店などが入っている。
元町 MAP 17
1950年代後半頃の撮影と思われる元町三丁目辺りの様子。
現在の「元町商店街」。休日は歩行者天国となり、多くの人が行き交う。
開港によって旧横浜村から立ち退いた住民が移住して生まれたのが元町。外国人居留地に隣接しており、外国人向けの商業地として発展した。左の写真は戦後の「元町商店街」の様子。写真の中央に見える「YAMAOKA FUR」は、日本で初めての毛皮専門店として創業し、1948(昭和23)年から元町に本店を構える「山岡毛皮店」。現在この場所は「山岡ビル」となっており、店舗は元町一丁目に出来た複合商業施設に入居している。右は「元町商店街」の現在の写真。店舗は入れ替わっているものの、昔と変わらずファッションや宝飾品の店が並ぶ。
中華街 MAP 18
右手の並びには、1892(明治25)年創業の「萬珍樓本店」や、1949(昭和24)年に宮大工によって建てられたと言われる「華勝楼」が見える。(1950年代後半か)
現在の中華街大通り。「萬珍樓」や「華勝楼」などの中華料理店が今も変わらず営業しているほか、複合商業施設「チャイナスクエア」が建っている。
開港後の横浜に居留した多くの外国商人たちは、漢字で日本人と筆談のできる中国人を通訳として伴ってやってきた。彼ら横浜華僑は、やがて居留地の一角である旧「横浜新田」を造成した地域に集まり住み、関帝廟、中華会舘、劇場などを設け「横浜中華街」を築いていった。「横浜中華街」は広東からの華僑を中心に発展したため、中華料理店も「萬珍樓」をはじめ広東料理店が多い。左の写真は1950年代後半の撮影と思われる中華街大通りの風景。戦災を経て1955(昭和30)年に、「牌楼門」(現「善隣門」)が通りの先に建てられた。現在の「善隣門」は1989(平成元)年に建て替えられたもので、「中華街」のシンボルのひとつとなっている。
バンドホテルと横浜港の眺め MAP 19
「山下埠頭」や首都高速道路ができる前の見晴らしはよく、広々としている。(昭和戦前期)
「山下埠頭」と首都高速道路の建設により、風景は一変した。量販店の前辺りに、わずかに「横浜港」の水面が顔をのぞかせている。
左の写真は昭和戦前期に撮影された「横浜港」の眺め。中村川(堀川)の河口付近を「港の見える丘公園」辺りから撮影したものと思われる。「横浜港」に弧を描いているのは、港内防波堤のうち1640mにわたる「東水堤」。左中央に写る鉄橋は「山下橋」、その手前の大きな白い建物は1929(昭和4)年から1999(平成11)年まで営業していた「バンドホテル」。ホテル内のナイトクラブ「シェルルーム」には、東京から足を運ぶ有名人も多かったという。現在はその跡地に量販店が建つ。また、かつて「東水堤」であった大部分が現在は「山下埠頭」に変わっている。
移民宿「福井屋」 MAP 20
弁天通界隈には「福井屋」の他にも「長野屋」などといった移民宿が多数存在し、海外移住希望者の出発点となっていた。(明治中期)
かつて「福井屋」のあった馬車道と弁天通りの交差点に、現在は「日本興亜馬車道ビル」が建つ。
日清戦争後、政府は日本船による海外航路の拡張を計り、横浜は海外渡航の玄関口としても賑わった。左の写真は馬車道沿いの弁天通五丁目にあった移民宿「福井屋」。移民宿とは、新天地を求める海外移住希望者向けの宿泊施設のこと。移民の主な渡航先としてはアメリカ、ハワイが多かったが、1924(大正13)年にアメリカの移民法改正により、アメリカへの渡航が制限された以後は、ブラジル、ペルー、メキシコ、フィリピンなどが主な渡航先となった。第二次世界大戦前には約77万人もの海外移住者がいたと言われる。「福井屋」は、当地に「日本興亜馬車道ビル」(旧川崎銀行横浜支店)が建てられた後は住吉町六丁目に移転したが、関東大震災で罹災し、その後再建されることはなかった。
赤レンガ倉庫 MAP 21
「赤レンガ倉庫」の前を走るSL。(昭和30年代)
現在の「赤レンガ倉庫」。
「新港埠頭」にある「赤レンガ倉庫」は、北の「2号倉庫」が1911(明治44)年、南の「1号倉庫」が1913(大正2)年の竣工。以来、横浜の物流拠点として活躍してきたが、1970年代になると海上輸送のコンテナ化などによって、しだいに倉庫としての役割は低下。1989(平成元)年に倉庫としての役目を終えて、保存活用に向けた整備が進められた。左の写真はまだ現役だった頃の「赤レンガ倉庫」。現役時代には「赤レンガ」前のプラットフォームまで貨物列車が入ってきたが、その貨物線の跡が現在は「汽車道」として残されている。商業・文化施設として生まれ変わった「赤レンガ倉庫」は、今も横浜のシンボルのひとつとなっている。
中村川と艀(はしけ) MAP 22
劇団「横浜ボートシアター」の初代「ふね劇場」。この頃、中村川の岸はまだ石垣だった。(1981(昭和56)年頃)
整然とした岸壁が続く現在の中村川。中央に見えるのはJR「石川町」駅。
横浜が港町として発展していく中で、沖に停泊した船と岸の間を貨物を積んで航行する艀は影の主役であったとも言える。「山下埠頭」の東に流れ込む中村川(堀川)の河口辺りは、艀が係留される「艀だまり」となっていた。稼働数がピークを迎えた1970(昭和45)年頃には「横浜港」全体で1700隻以上の艀が稼働していた。しかし、コンテナ船の時代が到来すると、艀の利用機会は少なくなり、次第に稼働数も減少していった。左の写真は1980年代初めの中村川。中村川をまたぐJR「石川町」駅の前では、使われなくなった艀を舞台とする「ふね劇場」で、劇団「横浜ボートシアター」が活動していた。右の写真は現在の中村川の様子。
東高島駅 MAP 23
貨物線「東高島」駅構内の水陸連絡ホーム。貨物を運ぶための艀が着岸している。(1987(昭和62)年)
水陸連絡ホームが取り払われた跡を駅敷地外の「龍宮橋」から撮影。遠景には、この30年ほどで建てられた高層ビル群が目立つ。
左の写真は貨物線「東高島」駅に設置された水陸連絡ホーム。「東高島」駅の周辺にはかつて多くの臨港貨物駅があり、同駅はそれらの中継地点として機能していた。しかし、物流環境の変化に伴い、同駅が貨物駅として活用されることはなくなった。左の写真が撮影された1987(昭和62)年5月には、すでに同駅の取り壊しが決まっていたという。この辺りにはかつて綿花倉庫があり、棉花町と呼ばれていた。「東高島」駅のそばには「棉花橋」が架かっており、近年の再開発では山内埠頭エリアのことを「コットンハーバー地区」と呼んでいる。
東西上屋倉庫 MAP 24
「東西上屋倉庫」の緑色の屋根は「クイーンの塔」と並んで港のシンボルだった。(1980年代中頃)
眼下の「象の鼻パーク」辺りは見通せないが、遠くを望めば今も変わらずよい景色が広がっている。
左の写真は「神奈川県庁」新庁舎の屋上展望台から、1980年代前半に撮影された海側の景色。右手には「横浜港」でかつて港湾物流の拠点であった「東西上屋倉庫」の鮮やかな緑色の屋根が見える。終戦直後にはララ物資と呼ばれる日本向け援助物資を収め、その後も貿易貨物の積み降ろしなどに使用されて日本の経済成長を物流面から支えたが、「赤レンガ倉庫」と同じく海上輸送のコンテナ化に伴ってその活動に終止符を打った。右の写真は同じ場所から撮影した現在の景色。目の前にビルが建ち、屋上展望台からの眼下の眺めは遮られてしまったが、横浜税関の「クイーンの塔」は先端だけでもそれと分かる。現在は「東西上屋倉庫」は解体され、跡地の辺りは「象の鼻パーク」になっている。
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