写真でひもとく街の成り立ち

このまちアーカイブス
鎖国から開国へと日本が大きく動いたとき、横浜はその最前線にあった。港から押し寄せたあらゆる事象を目撃し、それらを消化し、あるいは消化できずに受け流していくうち、膨大な量の記録が生じた一方で、かたちに残らないまま消えていった記憶も多いことだろう。現在、私たちの手元に残された写真や文書はその一部に過ぎない。しかし、それらに目を向け、耳を傾けながら、消失してしまった存在にも思いを馳せたい。開国から150年以上が経ち、横浜の街も、住む人も、代を重ねてきた。これらの資料が世代を超えて私たちに語りかけてくれることは決して少なくない。
「弁天橋」から大岡川を望む。弁天社はこの左岸にあった。
弁天通り
関内エリアには弁天通りと呼ばれる道が北西から南東に走っている。開港から間もない頃に発行された英字新聞を見ると「Main Streetof Benten」と記されており、「ベンテン・ストリート」は関内の目抜き通りとして認知されていたことが分かる。
もともと、現在の弁天通六丁目辺りの一帯には、「洲干(しゅうかん)弁天社」という神社が砂州の松林に囲まれて建っていた。その門前道が、おおよそ現在の弁天通りに当たる。風光明媚な洲干湊の景色は、「神奈川宿」から眺められる名所としてよく知られていた。また、開港後は開港場の中心をなす横浜町の入口に位置することから、茶屋などが集まり、人々で賑わった。
そんな地元民の心の拠り所も開国の大波には抗えず、増え続ける居留民のための区画造成によって1869(明治2)年に羽衣町へ移転した。さらに、天皇を頂点に戴く国体の成立によって神仏分離が実施された影響を受け、弁財天と同一視される市杵島姫尊(イチキシマヒメノミコト)などを祭神とする「厳島神社」に改称された。こうした出来事を当時の人々がどのように受けとめていたのか、今となっては正確に推し量ることはできないが、遷座・改称される「洲干弁天社」を惜しむ人もいたのだろう。
ただ、当時の民衆の心境としては信仰よりも、むしろ「文明開化」に沸いていたのかもしれない。外国人居留地に集まってくる異国の人々とその文化をしげしげと眺めつつ、自分たちの信仰は心の中に収めて、ただめまぐるしく変わる環境のなかで毎日を暮らそうとしたのではないだろうか。
「根岸森林公園」の大きな芝生広場は、地域の人々の憩いの場となっている。
記憶伝える「根岸競馬場」
JR「根岸」駅から本牧通りを渡り、丘の小道を登っていくと、すり鉢状に広がる大きな楕円形の敷地に「根岸森林公園」がある。日本で初の本格的な近代競馬場が建設されたのがこの場所だった。
日本の近代競馬の歴史は横浜の開港とともに始まった。1866(慶応2)年、外国人居留地における娯楽施設として、「根岸競馬場」が設立された。やがて外国人居留者だけでなく、政財界の重鎮を中心とした日本人も加わり、紳士の社交場として大変賑わったそうだ。明治天皇をはじめとする皇族関係者や、当時の政府首脳も観戦に訪れ、また外国要人の接待の場にもなっていた。
現在も日本中央競馬会の重賞競走として続いている「天皇賞」や「皐月賞」の前身となるレースが開催されるなど人気を集めたが、太平洋戦争開戦によって閉鎖を余儀なくされ、戦後も進駐軍に接収されてレースが再開されることはなかった。1969(昭和44)年になり跡地の大部分が米軍から返還された後、公園として整備された。隣接する「根岸競馬記念公苑・馬の博物館」では、「根岸競馬場」の歴史や日本の競馬の成り立ちなどを知ることができる。
豊かな緑に囲まれ、広々とした芝生もあり、天気のいい休日には家族連れなどで賑わいを見せる「根岸森林公園」。その奥には、関東大震災後にJ・H・モーガンの設計で建てられた一等馬見所(一等スタンド)が現在まで残っている。その威容は、西洋式の文化を受容しながら歩んできた横浜の記憶を、今に伝えてくれる貴重な遺産のひとつだ。
「山下埠頭」脇の艀だまりの様子。
艀(はしけ)の風景
港という場所は、常に通過点である。前衛的であり、変わり続ける。開港から現在に至るまでの横浜にも言えることだ。
時代をとらえた写真や文書が多く残る一方で、歴史に残らず、忘れ去られていく物事もはかり知れないほどある。「3日住めばハマっ子」と言われる新しいものを積極的に受け容れる気質も、そんな移ろいの早さから醸し出された人間らしい側面と言えるかもしれない。
開港から150年以上が経った横浜で、姿かたちの変わったものは数多ある。戦後の大きな変化では、海上貨物輸送のコンテナ化があった。物流における20世紀の重要な発明のひとつであるコンテナは、世界の貨物輸送のあり方を変え、開国以来日本の玄関となった「横浜港」にも大きな影響を与えた。港湾機能の中心は、しだいにコンテナターミナルを備えた埠頭へと移っていき、それに伴い、沖の船から荷物を積んで岸まで運ぶために港内を忙しく行き来していた艀の多くが引退し、艀の上で躍動していた人々の姿も消えていった。
20世紀末、横浜中心部のウォーターフロントには、使われなくなった鉄道線路や倉庫が残った。あるものは取り壊され、あるものは観光スポットとして再開発され、再び命が吹き込まれた。そうして再生されたものの代表のひとつが、「横浜赤レンガ倉庫」として全国的に知られるようになった。一方で、一時は1700隻以上を数えたという艀の群れは、もうほとんど姿がない。今でも、艀だまりには鉄製の艀がいくつか係留されているが、目に留める人は少ないだろう。
艀の主たる役割は、時代の変化とともに不要となった。しかし、艀が貨物輸送の要として活躍した時代を知る者にとって、この艀の浮かぶ風景は、往時の賑わいを想起させる郷愁の風景なのではないだろうか。
横浜ボートシアター「ふね劇場」での稽古風景。
艀の後日談
今でも「山下埠頭」脇の艀だまりには、黒い艀の姿がある。もちろん、かつてのような活況は見いだせない。ただ、横浜で役目を終えた艀については、80年代初頭からの後日談がある。
1981(昭和56)年、艀を劇場として利用した劇団が横浜で旗揚げした。遠藤啄郎氏を主宰者として、仮面を用いた創作劇を演じる劇団「横浜ボートシアター」だ。「ダルマ船」と呼ばれる木造の艀を劇場施設に改造した「ふね劇場」を、JR「石川町」駅前の中村川岸に係留して活動していた。
当時はアングラ劇ブームの余韻が残る時代。係留できる場所さえあれば、どこでも稽古、上演できる可動式の小劇場は、世界的に見ても珍しかった。同劇団は今でも活動を続けていて、現在の「ふね劇場」は鉄製の艀を使った三代目だ。ただ、時勢の難しさもあって、「ふね劇場」内での公演は行えず、稽古や内輪での企画にのみ使用している。場所は艀だまりのどこかだ。
横浜を取材して回るなかで、当地の演劇振興に長年力を注いできた一宮均さんと知り合った。若い頃から港湾労働に従事し、横浜の港を見つめてきた、まさしく港町・横浜の時代の証人と言える人だ。「横浜ボートシアター」との関わりも深い。2代目の「ふね劇場」が沈没したときには、「横浜ふね劇場をつくる会」を立ち上げ、人々に呼びかけて同劇団の活動を支えた。「第1回横浜トリエンナーレ」では、「ふね劇場」を「新港埠頭」の五号岸壁に係留して同劇団の『王サルヨの婚礼』公演を実現した。
そんな一宮さんが取材のなかで語った言葉。「横浜は海から見なければ分からない」。移りゆく横浜も、変わらない横浜も、ずっと見つめ続けてきた港を通してこそ、横浜という街の変遷を知ることができるのかもしれない。

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