写真でひもとく街の成り立ち

このまちアーカイブス
浅草・上野
上野と浅草は、「江戸城(皇居)」の北東にあたり、この地には江戸の街を護る「寛永寺」と「浅草寺」があった。江戸時代以降、上野は、「寛永寺」のある上野山(台地)と、町屋が並ぶ下谷が一体となって発展し、浅草は隅田川の水運や「吾妻橋」の架橋も加わり、「浅草寺」を中心に多くの人が集まる場所となり、上野・浅草ともに江戸(東京)を代表する賑わいの地として発展してゆく。明治以降の上野は何度も博覧会場となり、動物園、博物館など現在につながる文化施設が建設された。一方、浅草には日本一の演劇・映画の興行街が誕生、娯楽ばかりでなく、買い物や食べ歩きにも好まれる繁華街になった。また、この二つの街は鉄道(市電)で結ばれ、それぞれに東北・北関東方面に向かうターミナル駅も誕生した。戦前には、下谷区・浅草区に分かれていたが、戦後は合併して台東区となり、ともに歩みを進めている。
旧寛永寺五重塔 現在は動物園の園内に
「清水観音堂」とともに1631(寛永8)年に建立された五重塔は、8年後に花見客の失火で焼失した。現存する塔は、その直後に再建されたものである。1958(昭和33)年に「寛永寺」から東京都に寄付され、現在は動物園の中に位置している。(画像は明治後期)
明治40年に上野公園で開催 不忍池畔の外国館を望む
「上野公園」では、1877(明治10)年の第一回をはじめ、合計3回の「内国勧業博覧会」が開催された。「内国勧業博覧会」は、明治維新後の殖産興業策の一つで、政府主催で行われている。また、1907(明治40)年には、東京府の主催で「東京勧業博覧会」も開かれ、「上野公園」は多くの人で賑わった。写真は「東京勧業博覧会」の外国館と「不忍池」の様子。(画像は明治後期)
明治誕生の上野山下ステーション 開業2年後に本駅舎
日本最初の私鉄、日本鉄道(後の国鉄、現・JR)が1883(明治16)年に上野・熊谷間の路線を開業。この時の「上野」駅は仮駅舎でスタートし、1885(明治18)年にレンガ造りの本駅舎が竣工した。この駅舎は、1923(大正12)年の関東大震災で焼失したが、仮駅舎を経て、1932(昭和7)年に二代目駅舎が誕生した。(画像は明治後期)
「御徒町」駅は大正14年に開業 現在のアメ横付近には低い家並み
手前右側には、1925(大正14)年に開業した「御徒町」駅が見え、中央付近には「松坂屋上野店」のビルがそびえる。その向こう側に、地下鉄銀座線(1927(昭和2)年開業)が地下を通る中央通りが延び、上野、日本橋方面を結んでいる。(画像は昭和前期)
昭和2年に日本最初の地下鉄 上野・浅草間は運賃10銭
日本最初の地下鉄、東京地下鉄道(現・東京メトロ銀座線)は1927(昭和2)年、上野・浅草間に開通。当初は乗車時間わずか5分にもかかわらず、2時間待ちの行列ができたという。車両は1両であり、プラットホームに人があふれている様子がうかがえる。(画像は昭和前期)
境内の名物、鳩ポッポの豆売り 浅草寺が仕事場だった
大正期に流行した「東京節(パイノパイノパイ)」の中で、「雷門」「仲見世」「浅草十二階(凌雲閣)」などとともに浅草名物として歌われた、「浅草寺」境内の「豆売りのお婆さん」。本堂の前に並んで、行き交う参拝客に鳩のエサ(豆)を売る人気者だった。(画像は明治後期)
江戸時代の浅草全景
江戸時代末期の浅草を描いた「金龍山浅草寺御境内之図」を複写して、昭和前期に発行された絵葉書である。焼失する前の雷門が存在し、浅草広小路(現・雷門通り)と「仲見世」が他の道路に比べて、整備されていた様子がうかがえる。(画像は江戸末期)
隅田川に架かる吾妻橋・東武橋 松屋・ビール工場が向かい合う
隅田川を挟んで建つ、「松屋浅草店(東武鉄道「浅草」駅)」と「アサヒビール吾妻橋工場」。左手(下流)には吾妻橋、右手(上流)には東武線の橋梁が見える。河畔には、「隅田公園」が整備されている。(画像は昭和前期)
「上野」駅前から出発 浅草ほか、東京名所を巡る
昭和の東京は、内外から大勢の人がやってくる観光都市となり、市内を巡る遊覧バスが誕生した。遊覧バスの始発点は「上野」駅前(営業所)に置かれ、市内に点在する観光地を回った。中でも上野と浅草は、歴史のある寺社や新しい観光名所が集まり、遊覧バスを利用する乗客の人気スポットとなった。
この地図は、「東京観光自動車株式会社(現・国際興業株式会社)」が発行したもの(一部を使用)。遊覧バスの通るルートが赤い線で示されており、上野では「上野公園」内にも乗り入れていることがわかる。
そのほかにも、上野に「上野公園」、「動物園」、「東照宮」、「帝国博物館(現・「東京国立博物館」)」、「美術館」、「科学博物館」、「松坂屋本店」、一方の浅草に「浅草公園」、「浅草観音(浅草寺)」、「浅草松屋」などが描かれている。(画像は昭和前期)
寛永寺に向かう下谷広小路 池之端付近には大名屋敷
地図右上(北西)の上野の山には、本坊をはじめとする「寛永寺」の伽藍が広がっている。この本坊は、表門を残して上野戦争で焼失、その跡地は現在「東京国立博物館」になっている。「寛永寺」境内には1627(寛永4)年に徳川家康を祀る神社として「上野東照宮」が創建された。また、山には、天海大僧正が吉野から桜を移植させており、江戸時代には既に桜の名所として有名であった。山に続く下谷広小路の先には大名屋敷が並び、池之端や神田方面にも大名屋敷が広がる(家紋入りの部分)。その間を埋めるようにびっしりと建ち並ぶ大縄地(武家の屋敷地)や町屋が見える。(画像は1849(嘉永2)年~1862(文久2)年)
日本最初の官立音楽学校 東京藝術大学音楽学部の前身
1890(明治23)年、上野に移転した「東京音楽学校」は、同じ上野にできた「東京美術学校」と統合され、現在の「東京藝術大学(音楽学部・美術学部)」に発展した。「東京音楽学校」の「奏楽堂」は、日本で最初の洋式音楽ホールで、1983(昭和58)年に台東区に譲渡され、現在も「上野公園」内に保存されている。(画像は明治後期)
公園を背景に広がるホーム 公園口、浅草口などが開設
1932(昭和7)年に竣工した新しい「上野」駅を中心に、奥に「上野公園」、手前に駅前広場、当時は下谷区だった上野の街が広がる。駅舎の右手にも延びるホームが、二段構造(高架旅客線と列車線)になっている様子がよくわかる。(画像は昭和前期)
上野から浅草方面を望む 浅草十二階の姿も
「上野公園」から浅草方面を望んだ風景で、手前を走る市電の姿も見える。奥の浅草方面には、三つの高い建築物がそびえる。最も高い「浅草十二階(凌雲閣)」が左側に、中央には「日本パノラマ館」、右側には「東本願寺」本堂がある。(画像は明治後期)
境内の東側にあった五重塔 戦災後に現在の塔再建
現在の「五重塔」は境内の西側に建つが、かつては東側に位置し、現在その跡地には「旧五重塔跡」という石碑が建てられている。この旧五重塔は、江戸時代の1648(慶安元)年に再建されたもので、太平洋戦争により焼失した。(画像は明治後期)
雷門から続く長い商店街 昔も今も参拝客で賑わう
「仲見世」の始まりは、江戸中期の元禄・享保頃といわれ、境内掃除の賦役を命じられていた人々に、境内・参道での出店営業の特権が与えられたことによる。1885(明治18)年には、それまでの店舗に代わり、洋風レンガ造りの近代的な「仲見世」が誕生した。だが、こうしたレンガ造りの店舗は、関東大震災で消失し、その後現在に続く新たな「仲見世」の風景が生まれた。(画像は明治後期)
明治に開削され、戦後の埋め立てで姿消す
「浅草十二階(凌雲閣)」から見下ろした「浅草公園」、「ひょうたん池」の風景である。明治中期に「浅草公園」の街区(一区~七区)が造成された際にこの「ひょうたん池」が開削された。戦後、埋め立てられて姿を消している。(画像は大正期)
江戸時代から川開きの名物 現在は「隅田川花火大会」に
隅田川では、江戸中期から川開きに合わせて、花火の打ち上げが行われるようになった。その後は、戦争などによる中断を経て、現在は「隅田川花火大会」に受け継がれている。(画像は明治後期)

※「上野公園」は1924(大正13)年に宮内省より東京市に下賜された際、現在の正式名称である「上野恩賜公園」となっているが、「上野公園」という表記で統一している。
※企画制作協力/画像古地図提供 / 生田誠(※クレジット表記のないもの全て)

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