「寛永寺」は1625(寛永2)年、天海大僧正により「江戸城」の鬼門にあたる上野の台地に建立された。これは、京都における「京都御所」とその鬼門である「比叡山」に建立された「延暦寺」にならったもので、寺号も「延暦寺」同様に、創建時の元号から「寛永寺」と命名された。写真の「清水観音堂」は、京都の「清水寺」本堂と同じ懸造で、江戸の落語の舞台にもなった名所であった。
上野と浅草は、「江戸城(皇居)」の北東にあたり、この地には江戸の街を護る「寛永寺」と「浅草寺」があった。江戸時代以降、上野は、「寛永寺」のある「上野山(台地)」と、町屋が並ぶ「下谷」が一体となって発展し、浅草は「隅田川」の水運や「吾妻橋」の架橋も加わり、「浅草寺」を中心に多くの人が集まる場所となり、上野・浅草ともに江戸(東京)を代表する賑わいの地として発展してゆく。明治以降の上野は何度も博覧会場となり、動物園、博物館など現在につながる文化施設が建設された。一方、浅草には日本一の演劇・映画の興行街が誕生、娯楽ばかりでなく、買い物や食べ歩きにも好まれる繁華街になった。また、この二つの街は鉄道(市電)で結ばれ、それぞれに東北・北関東方面に向かうターミナル駅も誕生した。戦前には、下谷区・浅草区に分かれていたが、戦後は合併して台東区となり、ともに歩みを進めている。