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上野の象徴 江戸を護る「寛永寺」


徳川将軍家にも崇敬された「寛永寺」 MAP __

「寛永寺」は1625(寛永2)年、天海大僧正により「江戸城」の鬼門にあたる上野の台地に建立された。これは、京都における「京都御所」とその鬼門である「比叡山」に建立された「延暦寺」にならったもので、寺号も「延暦寺」同様に、創建時の元号から「寛永寺」と命名された。写真の「清水観音堂」は、京都の「清水寺」本堂と同じ懸造で、江戸の落語の舞台にもなった名所であった。【画像は明治後期】

江戸時代の繁栄を伝える「寛永寺」の「清水観音堂」。「東叡山」と呼ばれた境内には、「延暦寺」や「清水寺」といった、京都の有名寺院になぞらえた堂舎が建立された。

「旧寛永寺五重塔」 現在は動物園の園内に MAP __

「清水観音堂」とともに1631(寛永8)年に建立された五重塔は、8年後に花見客の失火で焼失した。現存する塔は、その直後に再建されたものである。1958(昭和33)年に「寛永寺」から東京都に寄付され、現在は動物園の中に位置している。【画像は明治後期】


高さ6メートルの釈迦如来像 「関東大震災」で頭部が落下 MAP __

「上野大仏」は1631(寛永8)年、越後村上藩主の堀直寄が戦死者の慰霊のために建立した。地震や戦争を経て、倒壊・破損と再建を繰り返す中で、「明治維新」後に仏殿が撤去される。「関東大震災」で落下した頭部以外は、「太平洋戦争」時に金属資源として供出され、現在では顔面部のみが残る。【画像は明治後期】

1972(昭和47)年、「寛永寺」に保管されていた顔面部をレリーフとして安置することとなった。顔だけを残す様子から「これ以上落ちない」として合格祈願などのパワースポットとしても注目されている。

「上野戦争」で新政府軍と戦った「彰義隊」の墓が公園内に残る MAP __

上野の山は、「戊辰戦争」のうちの1868(慶応4)年に起こった「上野戦争」の舞台となり、旧幕府軍の「彰義隊」は新政府軍に敗北。上野の山(「寛永寺」境内)は戦火により大部分が焼失した。当初、その遺骸を供養することはできなかったが、1881(明治14)年、「上野公園」内にその墓が建立された。【画像は明治後期】

現在の様子。「彰義隊」の墓は、台東区有形文化財に指定されている。

「寛永寺」に向かう下谷広小路 池之端付近には大名屋敷

地図右上(北西)の上野の山には、本坊をはじめとする「寛永寺」の伽藍が広がっている。この本坊は、表門を残して「上野戦争」で焼失、その跡地は現在「東京国立博物館」になっている。「寛永寺」境内には1627(寛永4)年に徳川家康を祀る神社として「上野東照宮」が創建された。また、山には、天海大僧正が吉野から桜を移植させており、江戸時代には既に桜の名所として有名であった。山に続く下谷広小路の先には大名屋敷が並び、池之端や神田方面にも大名屋敷が広がる(家紋入りの部分)。その間を埋めるようにびっしりと建ち並ぶ大縄地(武家の屋敷地)や町屋が見える。【画像は1849(嘉永2)年~1862(文久2)年】



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