写真でひもとく街の成り立ち

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上野・浅草
上野と浅草は、「江戸城(皇居)」の北東にあたり、この地には江戸の街を護る「寛永寺」と「浅草寺」があった。江戸時代以降、上野は、「寛永寺」のある上野山(台地)と、町屋が並ぶ下谷が一体となって発展し、浅草は隅田川の水運や「吾妻橋」の架橋も加わり、「浅草寺」を中心に多くの人が集まる場所となり、上野・浅草ともに江戸(東京)を代表する賑わいの地として発展してゆく。明治以降の上野は何度も博覧会場となり、動物園、博物館など現在につながる文化施設が建設された。一方、浅草には日本一の演劇・映画の興行街が誕生、娯楽ばかりでなく、買い物や食べ歩きにも好まれる繁華街になった。また、この二つの街は鉄道(市電)で結ばれ、それぞれに東北・北関東方面に向かうターミナル駅も誕生した。戦前には、下谷区・浅草区に分かれていたが、戦後は合併して台東区となり、ともに歩みを進めている。
徳川将軍家の崇敬を集めた寛永寺MAP 1
「寛永寺」は1625(寛永2)年、天海大僧正により江戸城の鬼門にあたる上野の台地に建立された。これは、京都における「京都御所」とその鬼門である比叡山に建立された「延暦寺」にならったもので、寺号も「延暦寺」同様に、創建時の元号から「寛永寺」と命名された。写真の「清水観音堂」は、京都の「清水寺」本堂と同じ懸造で、江戸の落語の舞台にもなった名所であった。(画像は明治後期)
江戸時代の繁栄を伝える「寛永寺」の「清水観音堂」。「東叡山」と呼ばれた境内には、「延暦寺」や「清水寺」といった、京都の有名寺院になぞらえた堂舎が建立された。
高さ6メートルの釈迦如来像 関東大震災で頭部が落下MAP 2
「上野大仏」は1631(寛永8)年、越後村上藩主の堀直寄が戦死者の慰霊のために建立した。地震や戦争を経て、倒壊・破損と再建を繰り返す中で、明治維新後に仏殿が撤去される。関東大震災で落下した頭部以外は、太平洋戦争時に金属資源として供出され、現在では顔面部のみが残る。(画像は明治後期)
1972(昭和47)年、「寛永寺」に保管されていた顔面部をレリーフとして安置することとなった。顔だけを残す様子から「これ以上落ちない」として合格祈願などのパワースポットとしても注目されている。
上野戦争で新政府軍と戦う彰義隊の墓が公園内に残るMAP 3
上野の山は、戊辰戦争のうちの1868(慶応4)年に起こった上野戦争の舞台となり、旧幕府軍の「彰義隊」は新政府軍に敗北。上野の山(「寛永寺」境内)は戦火により大部分が焼失した。当初、その遺骸を供養することはできなかったが、1881(明治14)年、「上野公園」内にその墓が建立された。(画像は明治後期)
現在の様子。「彰義隊」の墓は、台東区有形文化財に指定されている。
会場に多様なパビリオン 上野精養軒庭園より望むMAP 4
「東京勧業博覧会」会場を「上野精養軒」庭園から眺めた風景で、パビリオン、塔、売店などが建ち並ぶ。この会場の様子は、夏目漱石の小説『虞美人草』の主人公・宗近らの会話の中にも描かれている。(画像は明治後期)
都内有数の桜の名所として知られる「上野公園」、不忍池周辺。対岸には、「東天紅上野本店」のビルなどに加えて、高層マンションの姿も目立つようになっている。
国内のフランス料理の草分け 漱石作品にも登場MAP 5
1876(明治9)年、当時築地にあった「精養軒ホテル(築地精養軒)」の支店として、「上野公園」内に「上野精養軒」がオープンした。日本のフランス料理の草分けでもあるこのレストランは、夏目漱石の『三四郎』や『行人』にも登場する。(画像は明治中期)
レストランだけではなく、結婚式の披露宴やパーティー会場としての利用者も多い「上野精養軒本店」。公園内の博物館などでも支店(レストラン)の営業を行っている。
明治14年、上野公園に本館 帝室博物館MAP 6
「帝室博物館」の看板が架かる門の奥の本館は、1881(明治14)年に「寛永寺」本坊跡に、ジョサイア・コンドルの設計で竣工した。その後、1909(明治42)年に片山東熊設計の「表慶館」が誕生し、こちらは現存している。(画像は明治後期)
日本を代表する美術・博物館として、海外にもその名を知られる「東京国立博物館」(1952(昭和27)年に同名称に改称)。正面に見える本館は、1937(昭和12)年に竣工、翌年に開館した。
日本で最初に開園した動物園 明治15年に誕生MAP 7
「上野動物園」は当初、1882(明治15)年に農商務省所管の博物館付属施設として開園した。当時は日本の動物が主体で、その後、海外のトラやラクダなどが加わった。宮内省所管を経て、1924(大正13)年に東京市に下賜され、「上野恩賜公園動物園」となった。(画像は明治後期)
現在、「恩賜上野動物園」では、中国からやってきた2頭のジャイアントパンダをはじめとする約400種の動物を飼育している。
昭和7年に二代目駅舎が誕生 現在も残る名物駅舎にMAP 8
二代目「上野」駅には、正面玄関口に車寄せが設けられ、改札口に向かう乗客用になだらかなスロープが用意されていた。駅舎は砕石の入ったモルタル塗りの外壁をもち、昭和モダンな外観を呈している。(画像は昭和前期)
1932(昭和7)年に竣工した二代目駅舎の外観はほとんど変わらない。一方、駅構内は新幹線の開業、商業施設誕生などで進化を遂げている。
上野公園の地下を走る京成線 昭和8年に地下駅が開業MAP 9
大正期の京成電気軌道(現・京成電鉄)は、都心のターミナル駅として浅草進出を計画していたが、方針の変更により、上野に新しい駅を建設した。この駅は日暮里・上野間が「上野公園」の地下を通過するため、地下駅となった。(画像は昭和前期)
成田空港へ向かうスカイライナーの起点で、東京の国際的な玄関口ともいえる「京成上野」駅。
高度経済成長期の「上野」駅 日本を担う「金の卵」が降り立つMAP 10
昭和30年代、高度経済成長期の東京では、不足する労働者を地方の中学卒業生にも求めるようになった。「上野」駅では、毎年3月下旬に100~1,000人単位で、東北・信越・北陸方面から夜行列車で集団就職のために上京する光景が見られた。写真は富山県から集団就職する中学卒業生が早朝の「上野」駅に到着した様子。(画像は1956(昭和31)年)
1964(昭和39)年には、集団就職者を題材に歌われた『あゝ上野駅』が人気になり、集団就職者を指す「金の卵」が流行語となった。『あゝ上野駅』は、現在、広小路口に歌碑があるほか、13番線ホームの発車メロディにも使われている。
江戸の御成道は中央通り、走る馬車鉄道は市電、地下鉄にMAP 11
徳川将軍が上野・「寛永寺」に参詣する御成道は、現在の中央通りの前身である。1657(明暦3)年の明暦の大火後、道幅を広げて火除け地(広小路)となり、両側には商店が広がる江戸の繁華街となった。(画像は昭和前期)
商店や飲食店のテナントビルが建ち並ぶ街となった上野広小路周辺。大手家電量販店などの新しい店も目立つ。
江戸時代に名古屋から出店 松坂屋MAP 12
名古屋にあった「いとう呉服店」は、1768(明和5)年に上野の「松坂屋」を買収し、江戸(東京)に進出した。1917(大正6)年、新本館が完成したが、洋風4階建てのこの建物は関東大震災で焼失した。(画像は大正期)
1957(昭和32)年に南館を増築し、本館と合わせて売り場面積は約35,000平方メートルに達した。この南館は2014(平成26)年に営業を終了し、現在は建て替え工事が進められている。
中央通りを走る東京市電 元は忍川があった三橋付近MAP 13
上野広小路(「上野公園」南側)付近には、不忍池から流れ出る忍川に三つの橋が架かり、「三橋」と呼ばれていたが、明治後期~大正期に暗渠となった。この付近では、多くの市電が列を成す様子が見られた。(画像は明治後期)
市電の姿が消えた「上野」駅、広小路周辺。この下を東京メトロ銀座線が走り、「上野」駅と「上野広小路」駅が置かれている。
東京地下鉄道は新橋へ延伸 渋谷までの銀座線に発展MAP 14
開業当初の東京地下鉄道(現・東京メトロ銀座線)「上野」駅の出入口には、多くの乗客が並んでいる。この後、地下鉄は「万世橋」駅(後に廃駅)、「銀座」駅、「新橋」駅へと延伸。1939(昭和14)年、東京高速鉄道との相互乗り入れを実施する形で、現在の終点「渋谷」駅までつながった。(画像は昭和前期)
駅前の変貌に合わせて地下鉄の出入口も姿を変えた。現在は東京メトロ銀座線と日比谷線が乗り入れている。
吾妻橋のたもとに「浅草」駅 東武線延伸で連絡駅にMAP 15
浅草に最初にできた駅が、東京地下鉄道(現・東京メトロ銀座線)の「浅草」駅である。地上には1931(昭和6)年、東武の「浅草雷門(現・浅草)」駅が開業し、宇都宮・日光方面へ向かう鉄道との連絡駅となった。(画像は昭和戦前期)
「吾妻橋」のたもとに開かれている東京メトロ「浅草」駅の出入口。「浅草寺」のお膝元を意識した朱塗りの寺社建築を模した造りとなっている。
明治、大正期に雷門は存在せず 昭和35年に現在の姿にMAP 16
「雷門」の正式名称は「風雷神門」だが、1865(慶応元)年の火事で焼失し、戦後に再建されるまで、正式な「雷門」は存在しなかった。しかし、その間も度々、写真のような仮設の門が設けられていた。(画像は大正~昭和前期)
1960(昭和35)年、松下電器産業(現・パナソニック)の創業者である松下幸之助の寄進により、約1世紀ぶりに復活した「雷門」と大提灯。現在は浅草観光の拠点として、外国人にも人気のスポットになっている。
明治東京のシンボルタワー 関東大震災で崩壊MAP 17
平成の「東京スカイツリー」、昭和の「東京タワー」に先立つ、明治・東京のシンボルタワーがこの「浅草十二階(凌雲閣)」だった。1890(明治23)年、ウィリアム・K・バルトンの基本設計で建設され、日本初の電動式エレベーターが設置されていた。(画像は明治後期)
「浅草十二階(凌雲閣)」、「ひょうたん池」にあたる場所付近には、2015(平成27)年に新しい商業施設がオープン、賑わいの地としての歴史が引き継がれている。
幕末に開園、日本最初の遊園地 当初の植物園が名の由来MAP 18
「浅草花屋敷(現・浅草花やしき)」幕末に庭園として開園し、現在は日本最古の遊園地として営業を続けている。木戸(門)上の看板の横には、「活動大写真」の文字も見える。左奥には、「浅草十二階(凌雲閣)」がそびえている。(画像は明治後期)
時代の波を乗り越えて多くの人に愛され続けている遊園地、「浅草花やしき」。オールドファンにはなつかしい「Beeタワー(旧・人工衛星塔)」は健在だが、ゲート付近の雰囲気は大きく変わった。
浅草公園「六区」は 奥山から小屋が移転し、興行街にMAP 19
興行の旗や幟、看板が林立し、見物客(観客)でごった返す「六区」の興行街。「不如帰」や「真心」といった芝居の演目が見え、左の劇場(小屋)には、1911(明治44)年に開業した「千代田館」の看板がのぞく。(画像は明治後期~大正期)
笑いの殿堂、「浅草演芸ホール」は今も「六区」で営業を続けている(左)。右手奥には、高層ビルの「リッチモンドホテルプレミア浅草インターナショナル」が誕生した。
昭和12年に誕生したマンモス劇場 跡地はホテルにMAP 20
「松竹少女歌劇公演」の文字看板が見える、在りし日の「浅草国際劇場」。「松竹歌劇団」の本拠地としても人気を博したこの劇場は、1937(昭和12)年に開場し、1982(昭和57)年まで、演劇、レビュー、音楽ショーなどが行われた。閉鎖された後も敷地前の「国際通り」に名を残す。(画像は昭和前期)
「浅草国際劇場」の跡地に建つ、「浅草ビューホテル」。1985(昭和60)年にオープンした地上28階、地下3階の高層建築である。
江戸時代に架橋された 吾妻橋MAP 21
「吾妻橋」は1774(安永3)年、江戸期に隅田川で架橋された最後の橋で、「大川橋」とも呼ばれた。その後、架け替えられた木橋は洪水で流失、1887(明治20)年に隅田川最初の鉄橋としてこの橋が架けられた。(画像は明治後期)
1931(昭和6)年から、80年以上の歳月を経て健在の「吾妻橋」。この「吾妻橋」は赤い塗装が施され、「駒形橋(青)」や「廐橋(緑)」、「蔵前橋(黄)」とは、色で区別されている。
隅田川両岸に桜の名所 関東大震災後の三大復興公園の一つにMAP 22
関東大震災で大きな被害を受けた浅草付近の隅田川両岸には、1931(昭和6)年、復興三大公園の一つ、「隅田公園」が開園した。この公園は、浅草の対岸にあった水戸藩屋敷内の公園などを取り込み、和洋折衷の様式になった。(画像は昭和前期)
隅田川沿いは江戸時代からの桜の名所であった。現在は「隅田公園」として整備され、開花時期には多くの人で賑わう。
「浅草雷門」駅として開業 以前は対岸に「浅草」駅が存在MAP 23
それまでの東武線は、浅草の対岸にあった「浅草」駅が起終点だったが、1931(昭和6)年に隅田川を渡り、「浅草雷門(現・浅草)」駅まで延伸した。このとき、旧「浅草」駅は「業平橋」駅に改称された。(画像は昭和前期)
東武鉄道は2012(平成24)年、かつての「浅草」駅の跡地に、「東京スカイツリータウン」を開業させた。上野・浅草・「東京スカイツリー」間は鉄道のほか、バスでも結ばれ多くの人で賑わっている。
駅と一体化した百貨店 屋上遊園地が人気を集めるMAP 24
中央を走る馬道通を挟んで、奥には「浅草寺」の境内が広がり、本堂や五重塔など当時の伽藍の配置がうかがえる。手前には「松屋浅草店」のビルがあり、ビル内から東武線の線路が隅田川方向に延びる様子が見える。(画像は昭和初期)
現在も当時の建物のまま残る「松屋浅草店」。百貨店部分は地下1~地上3階で、上層階はテナントが入る「EKIMISE(エキミセ)」となっている。
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※「上野公園」は1924(大正13)年に宮内省より東京市に下賜された際、現在の正式名称である「上野恩賜公園」となっているが、「上野公園」という表記で統一している。
※企画制作協力/画像古地図提供 / 生田誠(※クレジット表記のないもの全て)

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