写真でひもとく街の成り立ち

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上野と浅草は、「江戸城(皇居)」の北東にあたり、この地には江戸の街を護る「寛永寺」と「浅草寺」があった。江戸時代以降、上野は、「寛永寺」のある上野山(台地)と、町屋が並ぶ下谷が一体となって発展し、浅草は隅田川の水運や「吾妻橋」の架橋も加わり、「浅草寺」を中心に多くの人が集まる場所となり、上野・浅草ともに江戸(東京)を代表する賑わいの地として発展してゆく。明治以降の上野は何度も博覧会場となり、動物園、博物館など現在につながる文化施設が建設された。一方、浅草には日本一の演劇・映画の興行街が誕生、娯楽ばかりでなく、買い物や食べ歩きにも好まれる繁華街になった。また、この二つの街は鉄道(市電)で結ばれ、それぞれに東北・北関東方面に向かうターミナル駅も誕生した。戦前には、下谷区・浅草区に分かれていたが、戦後は合併して台東区となり、ともに歩みを進めている。
博覧会から受け継がれる文化の森
「上野公園」では、1877(明治10)年開催の「第一回内国勧業博覧会」を皮切りに大正、昭和期まで数多くの博覧会が開かれてきた。代表的なものをあげると、1881(明治14)年の「第二回内国勧業博覧会」、1907(明治40)年の「東京勧業博覧会」、1914(大正3)年の「東京大正博覧会」、1922(大正11)年の「平和記念東京博覧会」、1928(昭和3)年の「大礼記念国産振興東京博覧会」、1930(昭和5)年の「海と空の博覧会」などである。こうした博覧会の名称には、「勧業」「平和記念」「国産振興」「海と空」など、当時の世相を表すキーワードが用いられている。

 

博覧会ではその都度、仮設の建築物(パビリオン)が造られたが、その中には博覧会終了後も、引き続き使用されるものも存在した。現在の「東京国立博物館」は、初期の「内国勧業博覧会」の開催に合わせて上野に移転、建設された。また、博覧会の開催により園地が整備され、新しい文化施設の誕生につながった。

 

「上野公園」には、1889(明治22)年に「東京美術学校(現・東京藝術大学 美術学部)」、1926(大正15)年に「東京府(現・都)美術館」、1931(昭和6)年に「東京(現・国立)科学博物館」、1961(昭和36)年に「東京文化会館」などが誕生している。こうした施設の存在が、長く文化の地・上野を支えてきた。

 

上野と御徒町を結ぶ商店街 「アメ横商店街」

 「アメ横商店街」

 「アメ横商店街」「アメ横商店街」

大晦日が近くなると、ニュース番組に必ず登場するのが上野「アメ横商店街」の買い物風景。師走の風物詩ともいえる賑わいが、毎年、上野と御徒町を結ぶこの街にやってくる。

 

「アメ横」の由来には、「アメヤ(飴や)横丁」と「アメリカ横丁」という二つの説が存在する。戦後の混乱の中、「上野」駅と「御徒町」駅間の真ん中、高架橋西側にバラックや闇市が誕生した。「上野」駅付近には、中国大陸などからの復員兵が集まって商売を始め、芋飴を売る店が多いことから、「アメヤ横丁」の名が生まれた。また、その後は、アメリカ進駐軍の払い下げ品を売る店が多くできたことから、「アメリカ横丁」とも呼ばれるようになる。前者の店は「上野」駅に近い側、後者の店は「御徒町」駅に近い側に多かった。

 

現在は上野・御徒町の間、約500メートルの高架下と西側に400軒ほどの店舗が存在する。食料品を売る店が多いが、扱う商品は衣料品、輸入雑貨など多岐にわたり、観光客も多いことから、飲食店も多数ひしめきあう。商店街の中には日蓮宗の古刹、「徳大寺」が存在し、関東大震災や東京大空襲でも焼失を免れた「摩利支天像」が祀られている。近年は、NHKの人気ドラマ「あまちゃん」に登場する場所としても有名になった。

歌に描かれた「心の駅」 「上野」駅
明治時代の歌人、石川啄木は歌集『一握の砂』の中に「ふるさとの 訛なつかし 停車場の 人ごみの中に そを聴きにゆく」と詠んでいる。停車場とは「上野」駅のことで、東京に暮らしながらも、故郷・岩手を想う気持ちが伝わってくる。

 

戦後の昭和30年代、高度経済成長期にあった東京では、地方の中学卒業生も労働者として迎え入れており、「上野」駅では、毎年3月下旬に夜行列車で集団就職のために上京する光景が見られた。1964(昭和39)年には、集団就職者の気持ちを「上野は俺らの心の駅だ」と歌った『あゝ上野駅』がヒットしている。

 

1977(昭和52)年には「上野発の夜行列車」で北海道へ向かう女性の心情を描写した歌謡曲『津軽海峡・冬景色』が流行している。時間のかかる東北や北海道、北陸方面への列車は夜行も多かった。歌が発売された当時、「上野発の夜行列車」は一日に40本以上あったという。

 

近年、「上野」駅の始発・終着駅の役割は薄くなった。東北・上越新幹線は1991(平成3)年に「東京」駅まで延伸、2015(平成27)年には、上野東京ラインの運転が始まり、宇都宮線・高崎線・常磐線の一部列車は「上野」駅を始発・終着駅としなくなった。また、同年、北海道新幹線(2016(平成28)年開通)の工事などを理由に寝台特急「北斗星」が廃止となり、「上野発の夜行列車」は全廃となった。

 

上京する人、故郷に向かう人が行き交い、様々なドラマが生まれた「上野」駅。今なお、故郷と東京をつなぐ「心の駅」と感じる人も多いだろう。

 

計画的な賑わいの街・浅草 興行街・六区の繁栄
1873(明治6)年、「浅草寺(浅草)」は太政官布達により、「寛永寺(上野)」、「増上寺(芝)」、「富岡八幡(深川)」、「飛鳥山(王子)」とともに、「万人偕楽ノ地」として、日本初の公園でもある「東京五公園」の一つに指定された。1884(明治17)年、「浅草公園」の敷地は七つの区画に分けられ、浅草一区〜七区が誕生した。

 

当初に設けられた一区は「浅草寺」本堂周囲、二区は「仲見世」、三区は「浅草寺」本堂と「伝法院」の敷地、四区は「林泉池」、「ひょうたん池」付近、五区は奥山(「浅草花屋敷」周辺)、そして六区が現在も続く興行(映画)街だった。また、追加された七区は公園東南部の浅草馬道周辺で、後に公園地から除外されている。

 

このうち、興行街・歓楽街の六区は明治〜昭和期を通じ、「浅草公園」を冠する必要がないほど、その名が全国的に有名になった。初期には奥山から移転してきた見世物や芝居、演芸などの小屋が建ち並び、やがて、活動写真を上映する映画館に変わった。大正期には、「浅草オペラ」と呼ばれる独特の軽演劇も人気を集めた。当時は年中、昼となく、夜となく街は賑わい、特に「藪入り」と呼ばれる年2回の休日には、商店の奉公人が押しかけて、道路からあふれるような人出だったという。

 


※「上野公園」は1924(大正13)年に宮内省より東京市に下賜された際、現在の正式名称である「上野恩賜公園」となっているが、「上野公園」という表記で統一している。
※企画制作協力/画像古地図提供 / 生田誠(※クレジット表記のないもの全て)

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