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「四天王寺」に今も生きる聖徳太子の理念

天王寺の地名の由来となったのが聖徳太子が建立したといわれる「四天王寺」で、その歴史は飛鳥時代、6世紀末にさかのぼる。この寺は単なる寺院ではなく、「四天王寺七宮」という外護の神社群と、「四箇院(しかいん)」と呼ばれる施設を備えていた。「四箇院」は仏法修行の道場である「敬田院(きょうでんいん)」、病者に薬を施す「施薬院(せやくいん)」、病者を収容し、病気を癒す「療病院(りょうびょういん)」、身寄りのないものや年老いたものを収容する「悲田院(ひでんいん)」の四つで構成され、その精神は現在にも引き継がれている。


聖徳太子が建立したといわれる「四天王寺」

「四天王寺」は593(推古天皇元)年の創建で、聖徳太子が建立したといわれる「七大寺」の一つ。聖徳太子の事績や「四天王寺」の縁起等が記された書『四天王寺縁起』が伝えられ、国宝に指定されている。境内は「四天王寺式伽藍配置」と呼ばれる、日本で最も古い飛鳥時代の伽藍配置様式で、「中門」「五重塔」「金堂」「講堂」が南から北へ一直線に並ぶ。写真は明治後期の「中門」と「五重塔」。「五重塔」は焼失などにより何度も再建されており、この塔は江戸後期の1812(文化9)年に再建されたもの。
MAP __【画像は明治後期】

明治期の写真にあった「中門」と「五重塔」は、1934(昭和9)年の「室戸台風」で倒壊、1940(昭和15)年に再建されたが、1945(昭和20)年の「大阪大空襲」で伽藍のほとんどを焼失。境内は昭和30年代に再建が進められた。写真は白壁と朱塗りの柱に囲まれた回廊が続く「四天王寺」の境内。現在の「五重塔」は1959(昭和34)年に再建された。

「石鳥居」は鎌倉時代の1294(永仁2)年、それまでの木造から石造に建て替えられた。『西方浄土の入口に通じる』という信仰から、「西門」の「石鳥居」からの参拝客も多い。
MAP __【画像は明治後期】

写真は現在の「石鳥居」。1934(昭和9)年に「四天王寺鳥居」として旧・国宝(現・重要文化財)に指定されている。

写真は明治後期の「亀の池」。古くは「大寺池」と呼ばれていたが、境内にある「亀井」にちなみ、亀が多く放されていることから「亀の池」と呼ばれるようになったという。「亀の池」に架かる「石舞台」は江戸後期の1808(文化5)年に再建されたもの。
MAP __【画像は明治後期】

写真は現在の「亀の池」と「石舞台」。「石舞台」では、毎年4月22日に行われる「聖霊会(しょうりょうえ)」(聖徳太子の命日の大法要)で舞楽が奉納される。「石舞台」は1954(昭和29)年に重要文化財へ指定されている。

「敬田院」の精神を受け継ぐ「四天王寺学園」 MAP __

1922(大正11)年、「聖徳太子1300年御忌記念事業」として、「天王寺高等女学校」が開校、1928(昭和3)年に「四天王寺」境内の現在地へ移転し、戦後に「四天王寺高等学校・中学校」(写真)となった。聖徳太子による「四箇院」の一つ「敬田院」は寺院そのもの、仏法修行の場のこと。人々が仏に帰依し、戒律を守って諸悪をなさず、善行を修め、仏の智慧を悟る所であり、「四天王寺学園」にはこの「敬田院」の精神が受け継がれている。【画像は昭和中期】

写真は現在の「四天王寺高等学校・中学校」。女子教育を実践する学校として歴史を刻み、2022(令和4)年に創立100周年を迎えた。

「施薬院」「療病院」の精神は「四天王寺施薬療病院」に MAP __

聖徳太子が開いた「施薬院」「療病院」の精神を継承する施設として、1933(昭和8)年、「四天王寺」の南西側に「四天王寺施薬療病院」が設立された。1948(昭和23)年には「四天王寺病院」に名称を変更している。【画像は昭和戦前期】

写真は現在の「四天王寺病院」。運営元の「社会福祉法人 四天王寺福祉事業団」は、高齢福祉施設、障がい福祉施設、児童福祉施設など、各種の社会福祉事業も多く展開し、「悲田院」「施薬院」「療病院」の精神を実践している。

「施薬院」として創建された「勝鬘院」 MAP __

「勝鬘院(しょうまんいん)」は、聖徳太子が開いた「四箇院」の一つ、「施薬院」として創建された寺院。太子がここで人々に「勝鬘経」を講じたと伝わることから「勝鬘院」と呼ばれるようになった。平安時代に「金堂」に愛染明王が祀られ、その後、信仰を集めたことから「愛染堂」とも呼ばれる。【画像は1936(昭和11)年頃】

地元の人々からは「愛染さん」とも呼ばれ親しまれており、縁結び、恋愛成就などの祈願に訪れる人も多い。隣接して「四天王寺七宮」の一つ、「大江神社」がある。
MAP __(大江神社)


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