「大山道」の歴史

『游相日記』に描かれた「大山道」 MAP 1

『游相(ゆうそう)日記』は江戸時代後期の画家・思想家、渡辺崋山が1831(天保2)年に相模を訪れた際に記した紀行文。江戸から「大山道」を歩き、一泊目に「荏田宿」の旅籠に宿泊。荏田付近について「此地は有馬坂下にて、山多田少し」と記している。画像は「有馬」と記された挿絵。当時の「大山道」のルートと、山並み・谷戸などの地形から、現在の「鷺沼二丁目交差点」付近から北西方向を描いていると推察される。【画像は1831(天保2)年】

葛飾北斎が描いた「大山詣」のすごろく

画像は前北斎為一(ぜんほくさいいいつ)による「大山詣・江ノ島詣」の道中を題材とした『鎌倉江ノ嶋大山新板往來雙六(すごろく)』の全図。前北斎為一は、葛飾北斎が60~70歳頃に使用していた画号で、北斎が描いた唯一のすごろく。下は長津田、谷本、荏田の3コマを拡大したもの。「大山詣」で行き交う人々で賑わった「大山道」が描かれている。【画像は江戸時代後期】

葛飾北斎が描いた「大山詣」のすごろく:長津田 MAP 2

葛飾北斎が描いた「大山詣」のすごろく:長津田

「長津田宿」入口付近の様子。低地から「大山道」に沿って丘陵を登ると「長津田宿」の民家が点在していることから、「恩田川」側からの光景と思われる。【画像は江戸時代後期】

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葛飾北斎が描いた「大山詣」のすごろく:長津田

「国道246号」の「恩田川」付近から見た、かつての「長津田宿」方面の様子。

葛飾北斎が描いた「大山詣」のすごろく:谷本 MAP 3

葛飾北斎が描いた「大山詣」のすごろく:谷本

鶴見川に架かる「川間橋」。三文の渡り賃を取ったため「三文橋」とも呼ばれた。すごろく内にも「鶴見の川上 此家にて橋賃をとる」とある。【画像は江戸時代後期】

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葛飾北斎が描いた「大山詣」のすごろく:谷本

「青葉区役所」の北西側付近、当時よりやや上流に架かる現在の「川間橋」。

葛飾北斎が描いた「大山詣」のすごろく:荏田 MAP 4

葛飾北斎が描いた「大山詣」のすごろく:荏田

旅籠あるいは茶屋と見られる軒先の様子。「荏田宿」は江戸初期に宿駅に指定されている。江戸から一泊目に適した距離にある宿場町として繁栄したという。【画像は江戸時代後期】

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葛飾北斎が描いた「大山詣」のすごろく:荏田

かつての「荏田宿」付近には現在も常夜灯などが残る。写真は宿場の入口にある下宿の庚申塔。

大正時代の「大山道」を行く MAP 5

大正時代の「大山道」を行く

大正時代の市ヶ尾周辺の農村地帯の風景。当時、この地域では珍しかったサイドカーに乗っているのは、作家・新聞記者の廣田花崖氏(詳細はこちら)。地形などから、撮影地は現在の横浜市青葉区市ケ尾町「地蔵堂下交差点」の北西付近で、現在の柿の木台方面を撮影したものと推定した。江戸時代の「大山道」の道幅は2間(約3.6m)を越えることがないといわれているが、サイドカーの車幅から、大正時代も同じ程度であったと推測できる。【画像は1920(大正9)年頃】

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大正時代の「大山道」を行く

現在もこの場所に「大山道」の旧道が残るが、手前のカーブの切り通しはなくなり、形状も若干変わっている。

開発が始まる前の青葉台 MAP 6

開発が始まる前の青葉台

写真は昭和30年代の「大山道」で、現在の東急田園都市線「青葉台駅」の南西付近にあたる。時代はすでに高度経済成長期に入り、東京近郊では都市化が進められていた時期だが、この地域にはまだ静かな農村の風景が拡がっていた。中央付近にかかる「恩田橋(「黒橋」とも呼ばれた)」の下には「雨堤堀」(現「しらとり川」)が流れている。「雨堤堀」は丘陵に細く入り込む谷戸で、川に沿って細長く水田が延びていた。明治以降、湿地上に築堤されるなど道路の改良が見られる。【画像は昭和30年代】

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開発が始まる前の青葉台

旧「恩田橋」は、現在の「環状4号」と「国道246号」の立体交差のすぐ西側、現在の「青葉台駅」の南東付近にあった。現在「しらとり川」の上流部分は暗渠(あんきょ・地下水路)になっているが、旧「恩田橋」より南側は開渠となり「恩田川」へ注いでいる。

古代からの歴史ある道

「荏田猿田公園」内にある「長者原遺跡(都筑郡衙跡)」 「荏田猿田公園」内にある「長者原遺跡(都筑郡衙跡)」 MAP 7

古代律令制の時代、現在の荏田西のあたりには武蔵国の郡役所「都筑郡衙(ぐんが)」が置かれていた。当時、「平安京」から各国府を結ぶ官道が整備されており、その一つである「古代東海道」は足柄峠から相模国に入り、「都筑郡衙」をはじめとする武蔵国方面へ向かっていたと考えられている。

江戸時代の初頭に五街道が整備された際、西国と東国を結ぶ「東海道」は箱根峠経由となった。足柄峠を経由するルートは脇街道として重要な役割を担った。足柄峠の東に「箱根関所」の脇関所として「矢倉沢関所」が置かれたため、「矢倉沢往還」と呼ばれるようになっている。

江戸時代、一般庶民には観光のための旅行は許されていなかったが、信仰を目的とすれば認められたため、中期以降、江戸の庶民の間で「伊勢詣」や「富士詣」「成田山詣」など、参詣を兼ねた物見遊山の旅が大流行した。特に、江戸の町から2~3日の比較的手頃な距離の「大山詣」は人気となり、年間数十万人が訪れたともいう。

「大山詣」が盛んになり、関東の各方面から大山に向かう多くの道が「大山道」と呼ばれるようになるが、中でも江戸から大山への最短となる「矢倉沢往還」が一般的なルートとなった。参詣後には江ノ島・鎌倉を併せて訪れる人も多く、その様子は落語『大山詣り』にも描かれた。この場合、復路には「田村通り大山道」を経由し「東海道」が利用された。

江戸末期の開国後、「横浜港」の近くを通る「東海道」での外国人とのトラブルを避けるために、「東海道御道替」が計画された。江戸・平塚間を「矢倉沢往還」経由にするもので、見分まで行われたが、実現には至らなかった。

戦後、かつての「大山道」に近いルートで「国道246号」、「東名高速道路」が開通、現在も東西日本を結ぶ大動脈となっている。古代からの主要道としての歴史は今もなお引き継がれている。

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※江戸時代中期、「大山」(現在の伊勢原市の北部に位置する)に参詣する「大山詣」が流行し、関東の各方面から「大山」に向かう道は「大山道」と呼ばれた。本誌における「大山道」は、特に注がない限り、現在の「多摩田園都市」内を通る「矢倉沢往還」のことを指している。また、一般に「大山みち」「大山街道」とも呼ばれるが、本誌では「大山道」に統一して表現している。