写真でひもとく街の成り立ち

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住吉・芦屋
神戸市東灘区、芦屋市一帯は、北に六甲山地、南に大阪湾を控え、海と山の幸に富んだ温暖で豊かな場所。古くは農業や漁業に従事する人々が暮らし、平安時代には貴族・皇族の別荘地であったともいわれる。江戸時代からは全国に名高い清酒の産地となった。また、大阪、神戸の中心部に近いことから、阪神間の鉄道開業後は、実業家らが移り住む住宅地となり、住吉、御影、芦屋といった地域は日本を代表する高級住宅地として発展した。この地には、大正、昭和前期を中心に独自の文化が花開き、現在ではその時代の文化や建造物は「阪神間モダニズム」と呼ばれ、その価値は高く評価されている。
旧御影・郡家村などの氏神「弓弦羽神社」MAP 1
「弓弦羽(ゆづるは)神社」は849(嘉祥2)年の創祀とされ、伊弉冊尊(いざなみのみこと)などを祭神とする。旧御影・郡家(ぐんげ)・平野村の総氏神で、社伝によれば、古代、神功皇后が戦勝を祈願し、山中に弓矢・甲冑を納めたことから、その山が「弓弦羽嶽(弓矢)」や「六甲山(甲冑)」とも呼ばれるようになったという。(画像は明治後期)
阪急「御影駅」の南東に鎮座し、氏子には酒造家も多い。元旦には「鏡開」が行われ、「菊正宗」「白鶴」「剣菱」の樽酒が振る舞われる。近年では、フィギュアスケートの羽生結弦選手が参拝したことでも有名になった。
『摂津名所図会』にも描かれた「岡本梅林」MAP 2
古くから「梅は岡本、桜は吉野、蜜柑紀の国、栗丹波」と詠われるほど有名な梅の名所であった。明治時代には乗客を楽しませるために、南側を走る官営鉄道(現・JR)の列車が一時停車をしたといわれる。(画像は明治後期~大正期)
名高い梅の名所も、水害や戦災、宅地開発などで消滅の危機を迎えたが、昭和40年代半ばからの神戸市や地元有志の活動で復活を遂げ、1982(昭和57)年に「岡本梅林公園」が開園した。
「白鶴」「菊正宗」「剣菱」などの酒造業で繁栄「御影郷」MAP 3
御影の地名の由来には諸説あるが、「澤の井」に神功皇后が御姿を映したことが由来とされている。この地では、「灘五郷」の一つ「御影郷」として酒造業が発展した。写真は「白鶴酒造」の重ね蔵の様子。(画像は大正~昭和前期)
大正時代に建造された木造の酒蔵を活用して、1982(昭和57)年に開館した「白鶴酒造資料館」。蔵人が酒造りをする様子を再現した人形、実際に使われていた道具などが展示され、原酒の利き酒ができるコーナーも設けられている。
「灘五郷」地域の中心 「魚崎郷」MAP 4
江戸時代以降、「魚崎郷」は「御影郷」、「西郷」などとともに、「灘五郷」の一つとして栄えた。魚崎には、1905(明治38)年に阪神の「魚崎駅」が開業した。写真は「櫻正宗」の醸造元である「山邑(やまむら)酒造」で、右上の人物は八代目山邑太左衛門。(画像は1915(大正4)年)
1998(平成10)年に開館、2010(平成22)年にリニューアルした「櫻正宗記念館櫻宴」は「櫻正宗」創醸400年の歴史を物語る酒造道具、 昔懐かしい看板や酒瓶、ラベルを展示するほか、レストランなども併設されている。
フランク・ロイド・ライト設計 国の重要文化財MAP 5
「灘五郷」の一つ、「魚崎郷」の酒造家、八代目山邑太左衛門の別邸として、芦屋川を望む六甲山地の南斜面に1924(大正13)年に竣工。「旧帝国ホテル」などを手掛けたフランク・ロイド・ライトの設計で、1974(昭和49)年に国の重要文化財に指定された。(画像は大正期)
1947(昭和22)年に「株式会社淀川製鋼所」の所有となり1989(平成元)年から「ヨドコウ迎賓館」として一般公開されている。
昭和9年開館の美術館 中国青銅器・陶磁器収集で有名MAP 6
茶人でもあった「白鶴酒造」七代目嘉納治兵衛(鶴翁)は、多くの人々の鑑賞、研究に役立つことを願い、嘉納(白嘉納)家が収集した美術品を展示するため、1934(昭和9)年に「白鶴美術館」を開館した。(画像は昭和前期)
私立美術館の先駆けともなった「白鶴美術館」は、古代中国の青銅器や中国陶磁器などのコレクションで知られ、本館建物は登録有形文化財となっている。
酒造家の寄付で建設された「御影町公会堂」MAP 7
1933(昭和8)年に建設された「御影町公会堂」。地上3階、地下1階建てで、800人収容の大ホールや食堂を有していた。建築費は、当時の額で24万円ほどで、その大半にあたる20万円が「白鶴酒造」七代目嘉納治兵衛(写真左上の人物)の寄付によるものだったという。(画像は1936(昭和11)年)
1950(昭和25)年の御影町と神戸市の合併にともない「神戸市立御影公会堂」へと名前を変えた。
「灘中学校・高等学校」 灘の酒造家らによって設立MAP 8
灘の酒造家である両嘉納家、山邑家の篤志で1927(昭和2)年に旧制「灘中学校」として創立。創立にあたり、嘉納家の親戚で、柔道の「講道館」創始者・館長であった嘉納治五郎に顧問を依頼、その愛弟子にあたる眞田範衛を初代校長に迎え、翌年に開校した。(画像は昭和前期)
戦前は柔道部の活躍でも知られたが、戦後は「東京大学」や名門大学の医学部などへと進学する全国屈指の名門校の一つとなった。
阪神間の最初の鉄道開通時に開業した「住吉駅」MAP 9
「住吉駅」は、新橋・横浜間に続いて、大阪・神戸間の官営鉄道(後の国鉄、現・JR)路線が1874(明治7)年に開業した際に置かれた。鉄道は当初、海側に建設される計画だったが、地元の酒造家たちが、「汽車の出す煙が酒を腐らせる」と反対し、山寄りに建設されることとなった。(画像は1911(明治44)年)
現在のJR神戸線(東海道本線)「住吉駅」の様子。1989(平成元)年にはターミナルビルが開業した。JR神戸線のほか、神戸新交通の六甲アイランド線(六甲ライナー)が乗り入れている。
「朝日新聞社」創業者が建てた「村山家住宅」 御影・住吉地域の邸宅の先駆け的存在MAP 10
大阪で「朝日新聞社」を創業した村山龍平(りょうへい)は1900(明治33)年頃に御影町郡家(現・神戸市東灘区御影郡家)に1万坪の土地を購入し、洋館や書院棟、茶室棟といった和洋の建物を建築した(現在は約5千坪)。この村山邸の誕生以降、多くの大阪の財界人が御影を含む阪神間に邸宅を設けるようになっていった。(画像は1924(大正13)年)
「旧村山家住宅」に隣接して、美術品コレクションを展示する「香雪美術館」が1973(昭和48)年に開館している。「旧村山家住宅」は2011(平成23)年に国の重要文化財に指定された。(※通常非公開)
「甲南学園」明治末期に幼稚園が誕生MAP 11
「甲南学園」の歴史は、住吉にある「甲南幼稚園」から始まった。この地に移り住んだ関西の実業家らの子女の教育を目的として、1911(明治44)年に幼稚園、1912(明治45)年に小学校が設立された。その後、1919(大正8)年に、旧制「甲南中学校」が岡本に開校し、大学・中学・高校からなる現在の「学校法人甲南学園」の源流となった。(画像は1941(昭和16)年頃)
現在、幼稚園・小学校は、別法人として運営しているが、それぞれが創立者である平生釟三郎の理念と遺志を現代へ受け継いでいる。写真は岡本にある「甲南大学」1号館の様子。
銀行家、山口吉郎兵衛の邸宅 現在は陶器などを展示する「滴翠(てきすい)美術館」にMAP 12
大阪を代表する銀行家であった山口吉郎兵衛は、頭取であった「山口銀行」が合併して、「三和銀行」(現「三菱東京UFJ銀行」)となったのを機に財界を離れ、陶器、人形、羽子板、カルタといった美術品の研究と収集に没頭した。邸宅の設計は安井武雄によるもので、現在ではモダニズム建築としても評価されている。(画像は昭和前期)
山口翁の雅号である「滴翠」を冠した「滴翠美術館」は、邸宅の一部が改装され1964(昭和39)年に開館。彼のコレクションを展示している。
白砂青松が続く「芦屋浜」 埋め立て前は海水浴を楽しむ人もMAP 13
白砂青松の海岸が続く芦屋には、平安時代の歌人である在原業平が別荘を構えたといわれ、明治後期以降は打出などとともに海水浴が楽しめる海岸として有名になった。当時の海岸線は、現在よりも北側に位置していた。(画像は昭和前期)
「芦屋浜」は1969(昭和44)年から埋め立てが始まり、昭和50年代には、「芦屋浜シーサイドタウン」をはじめとする新しい住宅地が誕生した。
六甲山地に源を発する芦屋川 川沿いには住民憩いの公園MAP 14
六甲山地を源流とし「大阪湾」にそそぐ芦屋川。現在の「芦屋公園」一帯は1917(大正6)年に「芦屋川遊園地」として開かれ、当時は上流の「開森橋」付近まで松林が続いていたという。河口付近の一角には、平安時代末期に、京都で退治され芦屋の浜に流れ着いた怪物の死骸を芦屋の村人たちが弔ったという伝説がある「鵺(ぬえ)塚」が残っている。(画像は昭和前期)
川沿いに散策路が設けられた緑豊かな「芦屋公園」には、樹齢150年余の市木クロマツなど約480本が茂る。
歌人、在原業平ゆかりの橋 阪神国道線の停留所が存在MAP 15
『伊勢物語』の主人公とされる平安時代の歌人、在原業平は芦屋に別荘を構えていたといわれ、現在、芦屋川に架かる国道2号の橋は、「業平橋」と名付けられている。ここには1974(昭和49)年に廃止される阪神国道線の、「芦屋川停留所」があった。(画像は昭和前期)
現在も国道2号に残る「業平橋」。道路を走る電車の姿は消えたが、橋の欄干などの様子は変わっていない。
六甲山麓の高級別荘地「六麓荘」MAP 16
「六麓荘」は、1928(昭和3)年から、国有地の払い下げを受けた「株式会社 六麓荘」により、大阪を中心とする財界人のための別荘地として開発された。名称の由来は「六甲山の麓の別荘地」という意味。この写真は、切り出された石で造られた「劔谷橋」の付近である。(画像は昭和前期)
現在の「劔谷橋」の様子。「六麓荘」には、開発当時、山から流れる沢に10本の橋が架けられた。「阪神・淡路大震災」などで傷んだ橋も含めて2003(平成15)年に修復された。
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※企画制作協力/画像古地図提供 / 田中真治、生田誠(※クレジット表記のないもの全て)

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