写真でひもとく街の成り立ち

このまちアーカイブス
現在、国内でも有数の繁華街として知られる新宿。江戸時代に宿場町が開かれて以降、盛り場として発展した。明治時代に入ると鉄道が敷かれ、次第に賑わいの中心は「新宿」駅寄りに移っていった。戦後の闇市の形成と時を同じくして、復興計画により歌舞伎町も誕生、繁華街の賑わいは一層高まった。平成になると、東京都庁舎が新宿へ移転。行政の中心“副都心”としての機能も加わり、更なる発展を遂げている。
浅草町人により開かれた計画的な賑わいの地

浅草町人により開かれた計画的な賑わいの地「四谷内藤新宿」『江戸名所図会』 1834~1836年 斎藤長秋 国立国会図書館蔵

「内藤新宿」誕生を語る上で、高松喜六の名前を外すことはできないだろう。浅草の阿部川町(現在の「上野」駅の東側)の名主だった喜六を中心とした浅草の町人たちは、現在の新宿の地に、新たな宿場町の開設を計画した。喜六は幕府に対し、宿場開設にあたり上納金五千六百両を納め、街を整備する費用の負担を申し出た。
喜六を開発に駆り立てた動機は何だったのだろうか。江戸時代は街道の交通量が増加し、宿場町の需要が高まった。また、日光街道の「千住宿」などは「日光東照宮」への参拝客のほか、日帰りで行ける行楽地・繁華街として江戸の住民で賑わいを見せていたという。そのような光景を目の当たりにした喜六は、宿場町の開設によって新たに繁華街を造り出せば、大きな利益を生み出せると考えたに違いない。
幕府の許可を得た喜六たちの手により、信州高遠藩主の内藤家、旗本の朝倉家の屋敷地の一部は姿を変え、「品川宿」、「板橋宿」、「千住宿」とともに、後に“江戸四宿”と呼ばれる「内藤新宿」の宿場町が整ったのである。
現在、若葉二丁目にある「愛染院」に喜六の墓標が建立され、新宿区指定史跡となっている。新宿発展の礎を築いた人物として、これからも顕彰されていくことだろう。

日本の近代農業、園芸はここからはじまった

1908(明治41)年画像は1908(明治41)年

明治維新後の1872(明治5)年、政府は内藤家の土地とその隣接地を組み合わせて購入し、近代的な農業振興のための「内藤新宿試験場」を整備した。約58.3haという広大な農場で、欧米型の進んだ農業を導入しようと試みたのである。数年後、「内藤新宿試験場」はその機能の一部を駒場に移転し、1879(明治12年)、この地は新たに宮内省によって「新宿植物御苑」となった。

昭和中期画像は昭和中期

「新宿植物御苑」では引き続き、果樹、野菜、花の栽培技術の研究が進められていた。そんななか、1898(明治31)年、御苑技師の福羽逸人が責任者に就任すると、ベルサイユ園芸学校の教授だったアンリー・マルチネーに、植物御苑を庭園に改造する計画を依頼した。1906(明治39)年5月、現在とほぼ同じ形の「新宿御苑」が完成し、日露戦争の戦勝祝賀を兼ねた開苑式が、明治天皇のご臨席のもとに催された。皇室の庭園となった「新宿御苑」は戦後、国民公園として運営されることが決まる。1949(昭和24)年、「国民公園新宿御苑」として一般に開放された。

「農事試験場」で改良されたフルーツの王様、マスクメロン

「野菜の作方」「野菜の作方」1902年 池久吉ほか 国立国会図書館蔵

新宿御苑にあった「農事試験場」の福羽逸人は、日本の果樹の研究に大きな功績を残した。現在、私たちがスーパーマーケットで買い求める果物も、そこで栽培や品種改良の研究をされたものも少なくない。なかでも、栽培に成功した「マスクメロン」は、新宿から広まったフルーツとして名高い。
新宿に「高野(創業時は「高野商店」)」が産声を上げ、明治中期になると、この地を代表する果物店に成長していた。人々の間で進物に果物を用いることが流行すると、これに目を付けたのが二代目・髙野吉太郎だった。1920(大正9)年、「高野」は店頭でマスクメロンの販売を開始。同年、早稲田大学の創始者・大隈重信がマスクメロンの試食会を開催したところ、瞬く間に話題となった。これを機に、「高野」も高級果樹販売店へ舵を切ることになる。
1926(大正15)年、「高野」は店舗を洋風建築に改装し、果物が主役の喫茶店「フルーツパーラー」を開店した。「フルーツパーラー」の流行とともに、マスクメロンは人々に広く認知されていったのである。

宿場町から駅の周辺へ、盛り場の移り変わり

昭和前期の新宿大通り追分から駅に向かって伸びる青梅街道の様子(昭和初期)

江戸時代のこの地域の盛り場といえば、宿場町の「内藤新宿」であった。しかし、明治時代に入ると、それまで徒歩や馬に頼っていた人々の交通手段が、徐々に鉄道へと転換していく。これにあわせて、街の中心もこれまでの街道沿いから駅前へと移り変わっていくこととなる。
1885(明治18)年に青梅街道に面して完成した日本鉄道「内藤新宿」駅は、宿場町からの人の流れを大きく変えるきっかけになった。2年後に「新宿」駅に改称され、その後は次々に鉄道路線が整備されていく。1889(明治22)年4月には、新宿から立川まで甲武鉄道が開通(8月には八王子まで延伸)し、現在のJR中央本線の原型が完成した。明治30年代に入り、乗降客や貨物の取扱量が増加すると、1906(明治39)年に甲州街道に面する位置に駅舎が移転、甲州街道沿いに商店が立ち並びはじめた。
1925(大正14)年、再び青梅街道沿いに面して、3代目「新宿」駅舎が完成すると、青梅街道沿いが商業地となり発展を遂げていく。鉄道の黎明期から発展期まで、新宿の街並みの形成は駅の改築に翻弄されてきたのであった。

「歌舞伎町」の復興計画に弾みをつけた博覧会

1950(昭和25)年には歌舞伎町地区をメイン会場として「東京産業文化博覧会」が開催された。娯楽施設の建設が中断されていた敷地にパビリオンを建て、会期後に転用する目論みもあったという。博覧会は興行的には失敗に終わったが、博覧会開催による知名度の向上や建築規制の撤廃もあり、街の開発は再び動きはじめることとなる。

『新宿新報』1950年4月29日 新宿区役所発行 新宿中央図書館蔵

左の写真は「東京産業文化博覧会」の様子。階段の奥には「児童館」や巨大な恐竜模型などが展示されており、後に「新宿コマ劇場」の場所となる。左の建物は「婦人館」で、後に「新宿劇場」を経て現在は「ヒューマックスパビリオン新宿アネックス」である。階段手前の空間も「歌舞伎町シネシティ広場」として残る。

 

「生活文化館」(左下の写真)の建物を転用して「東京産業文化博覧会」の翌年、1951(昭和26)年に「新宿東急文化会館」が誕生。1952(昭和27)年には「東京スケートリンク」(右下の写真)もオープンしたが、後にボウリング場へと姿を変えた。1996(平成8)年には「新宿TOKYU MILANO」に改称。2014(平成26)年に閉鎖となり今後は再開発が予定されている。

戦後、闇市の時代の面影を色濃く残す「ゴールデン街」

『露店』1952年 東京都臨時露店対策部 国立国会図書館蔵

米軍による東京大空襲によって1945(昭和20)年、東京の市街地は焼け野原となった。もちろん、新宿も例外ではなかった。やがて「新宿」駅周辺には、自然発生的に闇市や露店商が軒を連ねはじめた。その後、闇市は区画整理や都市計画によって整理されていくが、「ゴールデン街」のように、今もなお戦後の面影を残すエリアが残るのも新宿の奥深さといえる。

1968(昭和43)年の様子。中央に見える都電の専用軌道の右側に広がるのが「ゴールデン街」である。

1949(昭和24)年以降、新宿二丁目や駅の東口にあった露店商が移転したのが、現在の「ゴールデン街」のはじまりである。高度成長期にかけて、「ゴールデン街」の飲食店は作家や映画監督などの文化人が集う、流行の発信地となった。バブル経済の時代には、東京都庁舎の建設に合わせて、この一帯にも再開発計画が持ち上がったこともあったが、店主らが協力して守り抜いた。
現在は、約240軒もの木造長屋がひしめき合う飲食店街となっている。近年は、その独特の街並みが外国人観光客にも人気で、世界に知られる観光スポットとなっている。

トップへ戻る