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自然豊かな「千里丘陵」


「旗振り通信」の中継地だった「三本松」 MAP __

現在の吹田市千里山西三丁目のあたりは、かつて「河田山(こうだやま)」と呼ばれた桃の名所で、「三本松」とも呼ばれていた。標高約83mの見通しのきく場所で、明治期には絶好の眺望の地としても知られ、花見客などで賑わった。また、江戸中期から大正初期まで「旗振り通信」の中継地でもあった。「旗振り通信」は、堂島の米などの相場を手旗信号で全国に素早く知らせるための手段であったが、電話の普及とともに行われなくなった。写真は大正後期の「三本松」。【画像は大正後期】

現在、このあたりの最高地点の標高は約76mとなっており、一帯は柿畑などとして利用されている。

飛鳥時代創建といわれる「垂水神社」 MAP __

「千里丘陵」の南端に鎮座する「垂水神社」は、「豊城入彦命(とよきいりひこのみこと)」を主祭神とし、飛鳥時代の孝徳天皇の御代(645~654年)に、この地の領主だった阿利真公(ありまのきみ)により創建されたと伝わる。写真は、大正後期に撮影された拝殿。【画像は大正後期】

現在の拝殿は、1974(昭和49)年に造営されたもの。屋根が瓦から銅板になっている。

境内には「垂水の瀧」があり、飛鳥時代には、滝の水が干ばつに苦しむ「難波長柄豊碕宮」に送られ人々を救ったといわれる。江戸期には新田開発にも利用され、江戸後期の『摂津名所図会』には『清冷甘味、諸病を治す』と記された。『万葉集』にある『石走る 垂水の上の さわらびの 萌え出づる春に なりにけるかも』という歌は、志貴皇子(しきのみこ)が「垂水の瀧」を詠んだものという説もあり、境内には平成の天皇陛下御即位の際に記念として歌碑が建てられた。

「山田寺」とも呼ばれた「佐井寺」 MAP __

「佐井寺」は飛鳥時代の677(天武天皇6)年に結ばれた草庵に始まる。奈良時代の735(天平7)年、行基が土中から栴檀(せんだん)の「十一面観音像」を掘り出し、山田大臣が大壇主となって伽藍を建立したことから、「山田寺(さんでんじ)」とも呼ばれるようになったといわれる。行基は水の乏しかったこの地で、祈祷により「佐井の清水」を湧出させたともいわれており、「垂水の瀧」とともに「吹田三名水」の一つに挙げられている。写真は大正後期の境内。写真右手にある鐘は、江戸前期にこの地を治めていた京都所司代・板倉重宗が1649(慶安2)年に寄進したもので、鐘楼も同時期に建立されたものと考えられる。【画像は大正後期】

鐘楼は江戸前期の建築様式であり、現存する近世の鐘楼としては大阪府下で二番目の古さとされている。現在の本堂は1941(昭和16)年に完成したもの。


千里の特産品だった桃・筍・松茸

現在の「豊津駅」付近

大正後期の「千里丘陵」南端、現在の「豊津駅」付近。【画像は大正後期】MAP __

江戸時代に新田開発された「千里丘陵」は、気候や地質的に水田には向いていなかった。そのため、農民たちは桃などの果樹や筍の栽培を行った。

桃は江戸末期から、現在の上新田・下新田のあたりで栽培が始まった。写真に見える垂水付近は一面桃林が広がり、春には多くの花見客が訪れた。たわわに実った桃の実は、大阪の「天満市場」に出荷されたほか、缶詰にも加工され、売り出されていった。しかし、大正初期に害虫が大発生して、多くの地区で桃が全滅し、筍作りへの転換を余儀なくされた。

上新田地域の筍狩りの様子

上新田地域の筍狩りの様子。【画像は1940(昭和15)年頃】

筍栽培も江戸時代から盛んになり、昭和期には青果用だけでなく缶詰も生産された。筍栽培は千里の土地に適しており、特に山田地区の「銀筍」は有名であった。色は白くて柔らかく、しかも歯ごたえがあり、阪神間の別荘地で人気があり、通の中には「日本一」と言う人もいた。

また、「千里丘陵」には、赤松が多く生え、秋には松茸が多く採れた。人々は、松茸狩りを楽しみ、食べきれないほどの松茸を収穫していたという。

こうした果樹園や筍、赤松の多くはニュータウン開発などの市街地化で姿を消したが、市内の一部では桃づくりが行われ、竹林も残っており当時の面影を留めている。


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