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「茶の湯」を発展させた商人の町

国際貿易などで大きな富を成した堺の商人たちの間で、「茶の湯」(現「茶道」)は広まっていった。この「茶の湯」を「わび茶」として発展させたのが、堺の商人出身の武野紹鴎(じょうおう・千利休の師匠)である。利休は織田信長、豊臣秀吉の茶頭(さどう)となり、歴史に名を残した。利休と今井宗久(そうきゅう)、津田宗及(そうぎゅう)は「天下三宗匠」と呼ばれる存在だった。また、茶請けの和菓子作りも盛んとなった。


千利休ら茶人ゆかりの「南宗寺」 MAP __

1557(弘治3)年、戦国武将の三好長慶が父の菩提を弔うために建立した「南宗寺(なんしゅうじ)」は、「臨済宗大徳寺派」の寺院で、武野紹鴎、千利休が参禅した地。この場所で禅の精神を学び、「わび茶」を確立した。境内にある1647(正保4)年造営の「甘露門」は、禅宗様式と和様式の折衷による美を誇っている。【画像は明治後期】

境内では、「利休忌」にちなんだ茶会も催されている。また、武野紹鴎、千利休の供養塔もある。写真左は「仏殿」、写真右奥が「唐門」で、どちらも国の重要文化財に指定されている。

「利休好み」の茶室「実相庵」 MAP __(実相庵)

現在の「茶道」につながる「茶の湯」を大成した茶人、千利休は1522(大永2)年、堺の自治に関わっていた「会合衆」の中でも特に有力であった、倉庫業を営んでいた「納屋衆(なやしゅう)」にあたる豪商の家に生まれた。「茶の湯」を武野紹鴎に学び、「わび茶」を確立、その後、織田信長、豊臣秀吉の茶頭となった。古写真は「南宗寺」内にあった利休の茶室「実相庵(じっそうあん)」で、「利休好み」の二畳台目(にじょうだいめ・丸畳二枚と台目畳一枚を敷いた茶室)の始まりといわれている。空襲により焼失したが、1963(昭和38)年に再建された。【画像は明治後期】

2015(平成27)年にオープンした観光施設「さかい利晶の杜」には、京都・大山崎町「妙喜庵」に残る千利休作の茶室、国宝「待庵(たいあん)」を復元した「さかい待庵」(写真)があり、茶室内に入ることができる。

与謝野晶子の生家 和菓子店 堺「駿河屋」 MAP __(駿河屋跡)

1461(寛正2)年に京都・伏見で創業した和菓子店、総本家「駿河屋」の羊羹は秀吉の「聚楽第(じゅらくだい)」での大茶会で引き出物として用いられ絶賛された。分家である大阪「駿河屋」からさらに暖簾分けされた初代鳳宗七が、天保年間に堺の甲斐町で店を開いたのが堺「駿河屋」。歌人の与謝野晶子は、初代宗七の次男の三女で、子ども時代は店を手伝っていたという。古図の右にある建物が羊羹を製造していた店舗。【図は明治前期】

現在、堺「駿河屋」は廃業となっているが、「さかい利晶の杜」には、与謝野晶子の生家として、店先が実物大で再現されている。


政治の道具でもあった「茶の湯」

「さかい利晶の杜」

宿院町にある「さかい利晶の杜」。 MAP __

「椿の井戸」

「千利休屋敷跡」には椿の炭を底に沈めていた「椿の井戸」がある。 MAP __

堺では、豊かな富を背景にさまざまな文化が花開いた。その一つが、千利休が大成した「わび茶」である。

奈良・平安時代、唐よりお茶の種子を持ち帰ったのが日本におけるお茶の始まりであるという記録が残っている。鎌倉時代の末期には、お茶の味や香りから、産地・種類などを当てて勝敗を決める「闘茶」と呼ばれる遊びが行われ、娯楽性の高い「茶の湯」が急速に広まった。当時、「茶の湯」は豪華な書院で行われ、高価な唐物を使っていた。15世紀後半から16世紀後半になると、「わび茶」の祖といわれる京都の村田珠光(じゅこう)がこれまでの娯楽性の高い「茶の湯」ではなく、禅の思想や俗世を離れた生き方を理想とし、精神性を重んじる「わび茶」を開いた。この「わび茶」を深化させたのが、堺の豪商だった武野紹鴎で、大成したのがその弟子の千利休である。

千利休は、織田信長の茶頭となり「茶室外交」をリードした。信長は茶を通じて堺の商人たちと親交を深めたが、鉄砲や商人たちが持つ情報を手に入れることも狙いだった。その後、豊臣秀吉の茶頭として仕え、ここでも外交として多くの大名らを招いて茶会を開き、政治にも深く関わった。ほかにも利休は、黄金の茶室を設計したり、二畳ほどの茶室「待庵」を創作、秀吉が主催した大規模な茶会「北野大茶湯(きたのおおちゃのゆ)」を演出するなど多才であったが、1591(天正19)年、理由は諸説あるが、秀吉の怒りを買い、切腹となった。現在、利休が道を開いた「茶道」は三つの千家(「表千家」「裏千家」「武者小路千家」)などに受け継がれている。


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※千利休は1522(大永2)年に現在の宿院町で生まれた。幼名は与四郎で武野紹鴎に「茶の湯」を学び、宗易(そうえき)を名乗った。利休の名は、1585(天正13)年、正親町天皇への禁中献茶に奉仕し、このとき居士号「利休」を勅賜された。本ページでは「千利休」と記載している。



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