1469(文明元)年、「遣明船」が堺の港に着岸したことがきっかけで、国際貿易が盛んになった。室町時代には、町の北・東・南の三方に濠をめぐらせ、守護大名や武士の侵入から守られた「自由・自治都市」として栄えた。町の自治は「会合衆」と呼ばれた有力商人が行った。
「自由・自治都市」として発展
「住吉大社」の御旅所である「宿院頓宮」 MAP __
鎌倉時代に始まったといわれる「大魚夜市」 MAP __(現在の会場)
「大魚夜市(おおうおよいち)」は、「住吉大社」の神輿が「宿院頓宮」に渡御する「夏越祓神事(なごしはらえしんじ)」に合わせて多くの漁師が魚を持ち寄り、「住吉大社」へ魚を奉納、やがて余った魚介類を売るため魚市をたてるようになったことが起源といわれている。鎌倉時代から「太平洋戦争」中を除き700年以上続く、堺の夏の風物詩として、人々に親しまれている。
三方にめぐらせた堺を守るための濠 MAP __(過去写真の撮影地) MAP __(現在写真の撮影地)
町を治めていた「会合衆」の集会所「開口神社」 MAP __
国際貿易で堺の商人が活躍 「会合衆」が治める「自由・自治都市」に
鎌倉時代に漁港として発展した堺は、南北朝時代には、南朝方の外港としての役割を果たした。やがて、室町時代に三代将軍、足利義満により「日明貿易(勘合貿易)」が開始されると、当初は博多や兵庫の港が窓口となっていたが、「応仁の乱」の後には堺の商人もこれに加わり、「遣明船」の発着港となった。記録によれば、1474(文明6)年、室町幕府の命により、堺の商人が琉球に出掛けたとあり、1476(文明8)年には「遣明船」が堺の港を出発した。
薩摩から「種子島」などを経由して琉球へと往復していた堺の商人は、1543(天文12)年、「種子島」に鉄砲(火縄銃)が持ち込まれるとすぐに、その製造技術を堺に持ち帰った。その後、堺で鉄砲の大量生産に成功。鉄砲は堺において町の経済を支える有力な産業となった。
16世紀、ヨーロッパからポルトガル、スペインの商人が「インド洋」を越えて、インド、「マラッカ海峡」経由で日本にやってきた。日本の窓口は平戸、長崎など九州の港であったが、堺の商人は九州に出向いて、中国の絹や生糸、東南アジアの物産を銀などと交換する取引を行った。1550(天文19)年には、来日したキリスト教の宣教師、フランシスコ・ザビエルが堺を訪れている。
国際貿易により富を貯えた堺は「会合衆」と呼ばれた有力商人が町を治め、「自由・自治都市」として栄えた。また、町の周囲に濠をめぐらせ、守護大名や武士の侵入から町を守った。しかし、1568(永禄11)年、織田信長が堺に対し、軍用金二万貫を要求。「会合衆」は一度は拒否し、抵抗したものの、ついには信長の武力の前に屈服し、自治権を奪われた。
しかし、国際貿易において堺の商人は活躍を続け、豊臣秀吉、徳川家康による「朱印船貿易」の時代には、堺商人の木屋弥三右衛門、西ルイスらが「朱印船」を派遣。江戸幕府による鎖国政策が実施されるまで、多くの商人が海外に進出した。