写真でひもとく街の成り立ち

このまちアーカイブス
江戸時代以降、大坂は「天下の台所」、商人の町として栄えた。西国の大名が領内から取り立てた年貢米は大坂の蔵屋敷に集められ、各地の特産物もここで商いがなされた。その商業を支えたのが水運である。大坂の町には掘が張り巡らされ、人と物を運ぶ大小の船がその上を行き交った。その堀ゆえに多数の橋が架けられたため、お江戸八百八町、京の八百八寺に対して、「なにわ八百八橋」と呼ばれた。大坂は陸路においても重要な拠点であり、特に京橋は、京街道の起点として、大坂の玄関口の役割を果たした。今日に至るまで大阪は商都として発展を続けている。
江戸時代はもっと長かった「なにわ三橋」[ 1879(明治29)年 出典 : 『大阪府区分新細図』 ]
橋の多い大坂で、天満橋・天神橋・難波(なにわ)橋は、公儀橋の中でもとりわけ大きく、江戸時代の頃から極めて重要な橋とみなされた。そのため、「なにわ三橋」(浪華三大橋)と呼ばれた。
上の地図は明治初期の大川の姿。「天満砂州」が天満橋まで延びていたので、天満橋はこの砂州を跨(また)いでいた。これは、淀川が大雨の時に、寝屋川や鯰江(なまずえ)川に逆流して水害を引き起こすのを防ぐために1771(明和8)年に築かれたもの。この部分は完全に島として独立してはいなかったが、「将棊島(しょうぎじま)」と呼ばれた。しかし、1909(明治42)年、淀川改修工事の際に、将棊島は取り除かれた。一方で、中之島の砂州が次第に東に延びてきたため、今では天神橋にまで達している。つまり大川の地図は砂州でおよその年代が分かるのである。
大塩平八郎ゆかりの地 天満・八軒屋[ 1692(元禄5)年 出典 : 『大坂之図』に基づく。 ]
江戸時代後期に起きた未曾有の災害「天保の大飢饉」。民の飢餓に対して、救援を提言するも容れられなかった東町奉行所の元与力・大塩平八郎は、1837(天保8)年、私塾の門人や民衆と共に蜂起。これが「大塩平八郎の乱」である。その舞台となったのが大坂の天満。しかし半日で鎮圧され、米蔵から米を奪って民を救うこともならず、戦闘で大坂の五分の一を焼く大火となった(大塩焼き)。
天満にはかつて、与力や同心の役宅が並んだ。今も残る「与力町」「同心町」という町名からそれをうかがい知ることができる。大塩平八郎は自らの邸で陽明学を教える塾・洗心洞を開いた。その場所は現在では、造幣局の職員の宿舎となっている(一般公開はしていない)。洗心洞跡の北側、国道1号線沿いには、「大塩の乱 槐(えんじゅ)跡」の碑がある。そこは東組与力 朝岡助之丞の役宅庭跡で、大塩の乱において、大塩軍の大砲の砲弾が最初に撃ち込まれた地点である。
大阪のビジネスの中枢・船場
船場は、北の境が土佐堀川、南の境は長堀川〔1964(昭和39)年に埋立て〕、東の境は東横堀川、そして西の境は西横堀川〔1962(昭和37)年に埋立て〕 という川に囲まれた地域。豊臣秀吉が大坂城築城時に、堺や伏見から商人を強制移住させてできたという商業の中心地である。職種ごとに店の地域が集中していた。今も、ビジネス街として知られている。
大阪では、東西の道を「通」、南北方向の街路を「筋」という。その筋の一つである「堺筋」は、御堂筋が拡幅するまでは大阪のメインストリートであった。堺筋には、1917(大正6)年に三越、1921(大正10)年に白木屋、1922(大正11)年に高島屋、1923(大正12)年には松坂屋と次々百貨店がオープンしたため、「百貨店通り」と呼ばれた。下の絵葉書の中央奥が「三越呉服店」、その左手前の6本のイオニア列柱の並ぶ古典様式の建物は、1901(明治34)年竣工の三井銀行大阪支店。後の1936(昭和11)年に曾禰・中條建築事務所の設計で建て替えられる(現、三井住友銀行大阪中央支店)。
薬の町・道修町
船場の道修町は、中国や国内で生産された薬を扱う薬種問屋が集中する問屋街として栄えた。江戸時代には、仲買人が株仲間として組織され、独占的に全国に薬を供給した。今も、武田、第一三共、大日本、塩野義といった製薬企業が軒を連ねている。
大阪の中枢・中之島
江戸時代、中之島には大名の蔵屋敷が並び、大坂の経済の中心地となっていた。明治に入ると、この中之島に西洋建築が建てられ、時代を先駆けた地域となった。
絵葉書の中央には大阪府立図書館が、その後ろに中央公会堂が見える。さらに奥には、大阪城天守閣も小さく写っている。1879(明治12)年、現在の中央公会堂がある場所に豊國神社が建立した。1912(大正元)年、 中央公会堂を建設するため、豊國神社は大阪府立図書館の西(上の写真の手前)に移動した。1961(昭和36)年、 現在の大阪城公園内、本丸の南に移された。
高麗橋筋・銀行街
左の建物は「三越呉服店」、右手前は「三井物産」。奥(西の方向)は、改築前の「三井銀行大阪支店」。さらにその奥は、建物のコーナーのカーブが特徴の「高麗橋野村ビルディング」で、1927(昭和2)年竣工(現存する)。この高麗橋通には、さらに西に至るまで銀行が並んでいた。
世界初の証券・先物取引所堂島米会所(米穀取引所)と堂島川
1730(享保15)年、蔵屋敷の集まる大坂・堂島川のたもとに、「堂島米会所」が開設された。これは、世界初の本格的な先物取引市場といわれている。その日の相場は、櫓や山の上に中継所を設けて暗号式に旗を振って伝え、リレーで日本各地に知らせた。左の明治初期の錦絵にも、旗を振るための櫓が右下に描かれている。1893(明治26)年、ここに米穀取引所が設立された。

※「おおさか」を漢字で書くとき「大阪」と「大坂」の表記がある。江戸時代は、「大坂」と書かれること多かったが、大坂の「坂」の字が「土に反る」と読めるので縁起が悪いという理由で(他説あり)、明治時代以降「大阪」に統一された。本文中では、江戸時代以前は「大坂」、明治時代以降は「大阪」に便宜上統一した。
※企画制作協力/画像古地図提供 / 原島 広至

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