写真でひもとく街の成り立ち

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江戸時代以降、大坂は「天下の台所」、商人の町として栄えた。西国の大名が領内から取り立てた年貢米は大坂の蔵屋敷に集められ、各地の特産物もここで商いがなされた。その商業を支えたのが水運である。大坂の町には掘が張り巡らされ、人と物を運ぶ大小の船がその上を行き交った。その堀ゆえに多数の橋が架けられたため、お江戸八百八町、京の八百八寺に対して、「なにわ八百八橋」と呼ばれた。大坂は陸路においても重要な拠点であり、特に京橋は、京街道の起点として、大坂の玄関口の役割を果たした。今日に至るまで大阪は商都として発展を続けている。
秀吉の大坂城・徳川の大坂城 MAP 1
昭和30年代頃
1583(天正11)年、豊臣秀吉によって壮麗な大坂城が築かれた。しかし、わずか32年後の1615(慶長20)年、大坂夏の陣で大坂城は焼失する。第二代将軍 徳川秀忠の命により、大規模な大坂城が1629(寛永6)年に完成した。
昭和初期に、関一(せきはじめ)大阪市長によって天守閣の再建計画が発表されると、住友財閥の住友吉左衛門による25万円の寄贈を筆頭に、子供達がためた小遣いの10銭単位の寄付に至るまで、大阪市民がこぞって寄付金を寄せた。その結果、わずか半年間で目標の150万円に達した。こうして1931(昭和6)年、三代目の復興天守閣が完成した。第二次大戦の空襲にも、天守閣は持ちこたえた。現在の写真を見ると、高齢者用のエレベーターが増設されたのが異なるだけで、戦前とほとんど同じ姿を残している。
「京橋」江戸期の大坂の玄関口 MAP 2
明治後期(明治40年と明治44年の記念印あり)
寝屋(ねや)川に架かる京橋は、江戸時代は大坂の玄関口として賑わった。大坂の魚市場といえば、堀江の雑喉場(ざこば)が有名だが、京橋の北詰には、川魚を扱う魚市場が大正初期まで開かれていた。
水道橋となった京橋の上には現在、歩道橋の「大坂橋」が架けられている。右隅にかすかに見えるのは大阪城天守閣。
「伏見櫓」今はなき大阪城最大の三重櫓 /「乾櫓」 現存する大阪城最古の建築物MAP 3
明治後半~大正初期
江戸時代の1626(寛永3)年に建てられた二代目の天守閣は、完成してわずか39年後に落雷で焼失した。つまり、江戸時代の大半は、大坂城に天守閣がなかった。そのため、大坂城の北にあった伏見櫓が、大坂城の中で最も大きい櫓だった。伏見櫓という名は、解体された伏見城の櫓が移築されたものという伝説に基づいている。左の絵葉書では左奥に伏見櫓が、右手前に乾櫓が見える。伏見櫓は1945(昭和20)年の空襲で焼失してしまったが乾櫓は生き残った。乾櫓は徳川時代初期に建てられており、千貫櫓と並んで現存する大阪城の最古の建築物である。
東洋一の軍事工場「大阪砲兵工廠」 MAP 4
昭和初期
左の絵葉書は、天守閣から北西の旧二の丸を眺めたもの。戦前は、砲兵工廠の軍事工場や関連施設が、旧二の丸周辺を埋め尽くしていた。砲兵工廠跡は今では緑多い大阪城公園の一部となり、すっかり様子は一変した。絵葉書の下方は大阪城の内堀。右下隅に、秀頼、淀君が自害した所といわれる山里曲輪(現在の刻印石広場)が少し見える。
天満橋と京阪天満橋駅のりば MAP 5
明治後期~大正初期
江戸時代、天満橋の木橋は洪水で流されるとなんども架け替えられた。1888(明治21)年、ドイツ製の鉄橋が架橋された。当時の鉄橋の橋名飾板が、橋の北詰に展示されている。橋名飾板は橋の両端にあったが、実はもう一つの天満橋の橋名飾板が、大阪天満宮の星合の池の脇に、天神橋の橋名飾板と共に置かれている。
1910(明治43)年、この橋の南詰に、京阪電鉄のターミナル駅「天満橋駅」が設置された(現在は、淀屋橋駅が京阪本線のターミナルである)。左の絵葉書のように地上駅で、「京都行き電車のりば」の看板が掲げられていた。
「天神橋ゃ長いなぁ、落ちたらこわいな」とわらべ歌で唄われた天神橋 MAP 6
明治後期~大正初期
天満橋も天神橋も橋を管理していた大阪天満宮(天満天神社)に由来している。木橋だった頃の天神橋は三大橋中最長で(233.4m)「天神橋ゃ長いなぁ、落ちたらこわいな」とわらべ歌で唄われていた。大川河岸が整備されて川幅が狭くなったため、江戸時代の方が長かったのだ(今の天神橋は橋長 219.7m)。1888(明治21)年、上の絵葉書に見られる鉄橋が架けられた。橋のたもとには、橋のトラスよりも背の高い「三越呉服店」の広告塔が立っていた。右は、橋の北詰に保存・展示されている、明治時代に架橋された頃の鉄橋の橋名飾板である。
「ライオン橋」の愛称をもつ難波橋 MAP 7
大正後期~昭和初期
難波橋も元は木橋だったが、1912(明治45)年、鉄筋コンクリートアーチ橋が架けられた。親柱の上には狛犬のように、阿(あ)と吽(うん)、それぞれ2体のライオンの石像が置かれ、「ライオン橋」とも呼ばれている。
現在の難波橋筋には、なぜか難波橋がない。 実は難波橋は、元々は難波橋筋に架かっていたのだが、1912(明治45)年に市電が天神橋筋6丁目まで伸びた際、難波橋を一つ東の堺筋に架け替えたためである。
「八軒家船着場」 大塩平八郎はここから船で逃走した MAP 8
画像は明治初期
江戸時代の淀川は、三十石船が大坂~京都間を往来していた。天満・天神橋間の南の浜にある八軒家は、旅人を運ぶ三十石船の船着き場の一つ。この八軒家浜には、荷揚げ用の「雁木(がんぎ)」と呼ばれる石段があり、水位が変わっても船に乗り降りすることができた(左の古写真の階段状の部分)。今では土佐堀通から北大江公園へ上がる石段がその跡の一部である。つまり昔の浜は、現在の「八軒家浜船着場」よりもかなり内陸にあったことになる。大塩平八郎は乱が失敗した後、この八軒家から船で逃亡し再起を図るも、40日後に隠れ家を追っ手に包囲され、爆薬で自害した。
造幣局 桜の通り抜け MAP 9
昭和初期
1871(明治4)年、大阪の天満に造幣寮が設置され、1877(明治10)年、造幣局に改称された。今も貨幣の製造や地金の分析が行われている。ここは昔は藤堂家の伊勢・津藩の蔵屋敷だった。珍しい八重桜が集められていたのが、造幣局の桜のはじまり。1883(明治16)年には桜の一般公開を始めた。現在、4月中~下旬頃に公開され、毎年花見客で賑わっている。
大阪で現存する最古の西洋建築「泉布観」 MAP 10
明治後期
泉布観とは、1871(明治4)年、造幣寮の応接所として建てられたコロニアル式の建物。現存する大阪最古の西洋建築。設計はトーマス・ウォートルス(銀座煉瓦街の設計者)。その隣には、同じウォートルスによる桜宮公会堂が建っている。
「北浜の風雲児」岩本栄之助の寄付によって建てられた中央公会堂 MAP 11
昭和初期
「北浜の風雲児」「義侠の相場師」という異名をもつ株式仲買人・岩本栄之助はアメリカを視察した際、富豪達が慈善事業のために巨額の寄付をしていることに感激し、父親の遺産と私財を合わせた100万円を中央公会堂建設のために大阪市に寄贈した。しかし、第1次大戦後の相場の激動のため岩本は大損害を被り、完成を待たずして、1916(大正5)年、39歳で自ら命を絶った。中央公会堂は、1918(大正7)年に完成。中之島の景観に欠かせない存在となっている。
大阪初の洋式ホテル「自由亭ホテル」後に改名されて「大阪ホテル」となる MAP 12
明治後期~大正初期
1881(明治14)年、草野丈吉が中之島に「自由亭ホテル」を開業。1895(明治28)年、洋風建築が完成し、「大阪ホテル」と改称された。明治・大正時代において、大阪の最高級の格式を誇るホテルだった。現在、その跡地には、大阪市立東洋陶磁美術館が建っている(右の写真)。
大阪府立図書館(現、大阪府立中之島図書館)と豊臣秀吉像 MAP 13
明治後期~大正初期
大阪府立中之島図書館(旧称、大阪図書館、次いで大阪府立図書館)は、1904(明治37)年に、住友財閥の住友吉左衛門の寄付25万円(建設費・図書購入費)によって完成した。ルネッサンス様式で、玄関にはコリント式円柱とペディメント(破風)をもつ。左の絵葉書の頃は本館のみで、1922(大正11)年に足された左右の両翼の増築部分がまだない。
左の絵葉書の右には、1903(明治36)年建立の太閤秀吉の銅像が見えるが、2007(平成19)年、大阪城公園内の豊國神社内に再建された。
「水晶橋」 河川浄化のために建設された堂島川ダム MAP 14
大正後期~昭和初期
1929( 昭和4)年竣工の「堂島川可動堰(堂島川ダム)」は、当初は堂島川の水を一旦せき止めて、一気に解放して、放水で濁った川の水を押し流すという仕組みの河川浄化のためのダムだった。その美しい橋の姿から「水晶橋」とも呼ばれる。
日本銀行大阪支店、土佐堀川と淀屋橋 MAP 15
大正後期~昭和初期
土佐堀川に架かる「淀屋橋」の名は、江戸時代に豪商「淀屋」が、自費でこの橋を架橋したことに由来する。1912(明治45)年、淀屋橋は鉄橋に架け替えられ、1935(昭和10)年、重厚なデザインの鉄筋コンクリート橋に架け替えられた。淀屋橋の北詰、中之島側には日本銀行大阪支店が、1903(明治36)年に建設された。設計は、日本銀行本店や東京駅の赤レンガ駅舎を手がけた辰野金吾による。昭和50年代に改修工事が行われたが、元の外観を復元・保存する形でなされた。現在は、銅葺き屋根が緑青(ろくしょう)を吹いて薄緑色が美しいが、左の絵葉書では、まだ緑青が生じる以前の銅の色が表現されている。
ネオ・ルネッサンス様式の三代目大阪市庁舎 MAP 16
昭和初期
初代市役所は江之子島の大阪府庁舎の隣にあったが、1921(大正10)年、中之島に、堂々たるネオ・ルネッサンス様式の三代目市庁舎が完成。高さ約56mで、当時大阪市一の高さのビルだった。現在の四代目市庁舎は、1985(昭和60)年に完成した。
大阪駅舎 MAP 17
(初代)明治初期。1874(明治7)年、大阪~神戸間の鉄道が開業。木造2階建・赤レンガ張りの初代大阪駅が誕生した。当時は、「梅田ステンショ(ウ)」と呼ばれたり、「梅田停車場」とも呼ばれた。
(二代目)大正後期。初代駅舎は手狭になり、1901(明治34)年、二代目大阪駅がほぼ現在の位置に建てられた。1903(明治36)年、大阪駅前に市電が開通している。上の絵葉書の手前を通る白い部分は市電の線路のある部分。
(三代目)昭和30年代頃。実は当初の計画では全体が5階建で、鉄骨は組み終わっていた。しかし両側の4階・5階部分の鉄骨は、途中で切り取られて戦時の金属供出のため回収されてしまった。
1940(昭和15)年、三代目の大阪駅舎の2階部分までが完成し、開業する。1943(昭和18)年、中央部が5階建・両側が3階建という凸型で完成した。2011(平成23)年、五代目の新駅舎と斜めの大屋根が特徴的な複合施設の「大阪ステーションシティ」が開業した。
JR、地下鉄、阪急、阪神が乗り入れる大阪駅・梅田駅周辺は、ホテルや百貨店などの高層ビルが並び、大阪の代表的繁華街の一つとなっている。
大阪駅の最初の候補地は堂島だったが、住民から、火の車が町中を走ると火事になると反対されたり、神戸方面への鉄道延長の便を考慮に入れ、大坂七墓の一つであった梅田(埋田)に建設された。何もなかった駅周囲は、駅の建設後、急速に市街地化が進んだ。
阪急梅田駅・阪急百貨店 MAP 18
昭和5年頃
1910(明治43)年、初代阪急梅田駅が開業する。当初の駅舎は木造の2階建だった。1929(昭和4)年、日本初の鉄道会社直営のターミナルデパート「阪急百貨店」が誕生した(現在の阪急百貨店うめだ本店)。その後、増築は第9期1977(昭和52)年まで続けられた。
2012(平成24)年、全館リニューアル・オープンした、超高層建物の「梅田阪急ビル」において、低層部は、アーチ、丸窓、モザイク風タイルによって、かつての旧「阪急ビルディング」のデザインが継承されている。
昭和初期の大阪駅前 MAP 19
昭和30年代頃
左は、まだ空が広く見える、戦後間もない大阪駅前周辺の2枚綴りの絵葉書。右手には三代目の大阪駅舎があり、その奥には中央郵便局が建つ。一番左には第一生命ビル。その東隣(画像の手前)には1963(昭和38)年に阪神百貨店の増築部分が完成するので、この絵葉書は昭和38年以前ということになる。この第一生命ビルよりも南(画面左の範囲外)には、かつては「梅田繊維街」があって、繊維品の卸問屋が数百も密集していた。大阪万博の時代、大阪駅前再開発事業により「新大阪センイシティー」に集団移転した。
曽根崎新地 MAP 20
明治後期
1703(元禄16)年、曽根崎の露天神社(つゆのてんじんしゃ)の森で、天満屋の女郎・お初と醤油屋の手代・徳兵衛が心中した。この悲恋を題材に、近松門左衛門が脚色を加えて書いたのが『曽根崎心中』である。
露天神社は、お初にちなんで「お初天神」と呼ばれ、お初天神のある商店街は、「曽根崎お初天神通り」という愛称で呼ばれている。曽根崎新地は現在、高級飲食店街の「北新地」となる。
堂ビル MAP 21
昭和初期
堂島ビルヂング(堂ビル)は1923(大正12)年竣工の鉄筋コンクリート造9階建。大阪では最初の複合ビルであり、当時としては、9階建というのは大阪で最も階数の多い建物で、東京の丸ビルと並び称された。堂ビルは、近年、大きな改築(建て替えではない)がなされたが、躯体は昔と変わらず、同じ場所に立っている。
蜆(しじみ)川は埋立てられ、桜橋は交差点となった MAP 22
昭和初期
1909(明治42)年に、焼失戸数が 11万軒を上回る未曾有の大火が、大阪北部を襲い、「北の大火(天満焼け)」と呼ばれた。蜆川はその瓦礫で埋立てられたため、蜆川に架かる桜橋も橋ではなくなった。かつての桜橋は、現在の桜橋交差点よりもやや南にあった。
堂島付近地図 MAP 23
堂島付近地図明治初期(右)『大阪府区分新細図』1879(明治12)年
昭和初期(左)『最新大大阪府市街全図』1930年(昭和5)年
堂島は、(堂島)薬師堂が名の由来。「島」の名の通り、かつては曽根崎川と堂島川の間の中州だった。
五代友厚を中心に創設された大阪株式取引所 MAP 24
昭和初期
船場北浜は、江戸の昔から、両替商や米問屋、米仲買が集まる金融の中心。1878(明治11)年、五代友厚、住友吉左衛門、鴻池善右衛門らが発起人となり大阪株式取引所を設立した。1894(明治27)年、赤レンガ造3階建の取引所が竣工した。後に手狭となり、1935(昭和10)年、新古典主義様式の新館が竣工(設計は竹腰健造による)。2004(平成16)年、全面改築されたが、玄関ホールや貴賓室は保存されている。右の写真は、大阪取引所前に立っている五代友厚像。五代友厚は明治政府の参与や判事となるも官を辞し、実業界で名を馳せた。東の渋沢・西の五代と称された。
淀屋橋(手前)と肥後橋(奥)と住友ビルディング MAP 25
(三井住友銀行大阪本店)昭和初期
絵葉書中央左に見える建物は、1926(大正15)年に第1期工事が竣工した「住友ビルディング」。シンプルかつ重厚なデザインだが、近づいてみると繊細な装飾が各部に施されている。住友財閥の経営統括本部ビルとして建築され、住友合資会社や住友銀行、住友金属、住友生命等の本社事務所が入居し、住友グループの「総本山」的存在。現在は、三井住友銀行大阪本店。北浜4丁目、今橋4丁目付近は、住友ビル本館、住友ビルディングをはじめ、住友ビル2~4号館、住友生命淀屋橋ビル等、住友系のビルが建ち並んでおり、「住友村」と呼ばれている。
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※「おおさか」を漢字で書くとき「大阪」と「大坂」の表記がある。江戸時代は、「大坂」と書かれること多かったが、大坂の「坂」の字が「土に反る」と読めるので縁起が悪いという理由で(他説あり)、明治時代以降「大阪」に統一された。本文中では、江戸時代以前は「大坂」、明治時代以降は「大阪」に便宜上統一した。
※企画制作協力/画像古地図提供 / 原島 広至

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