写真でひもとく街の成り立ち

このまちアーカイブス
江戸時代以降、大坂は「天下の台所」、商人の町として栄えた。西国の大名が領内から取り立てた年貢米は大坂の蔵屋敷に集められ、各地の特産物もここで商いがなされた。その商業を支えたのが水運である。大坂の町には掘が張り巡らされ、人と物を運ぶ大小の船がその上を行き交った。その堀ゆえに多数の橋が架けられたため、お江戸八百八町、京の八百八寺に対して、「なにわ八百八橋」と呼ばれた。大坂は陸路においても重要な拠点であり、特に京橋は、京街道の起点として、大坂の玄関口の役割を果たした。今日に至るまで大阪は商都として発展を続けている。
大阪の高層建築のはしり 茶屋町の「キタの九階(くかい)」
凌雲閣といえば、日本の高層建築の先駆けと呼ばれる「浅草十二階」〔1890(明治23)年竣工〕が思い浮かぶだろう。高さが52mあり、当時としては「雲を凌ぐ」楼閣として名付けられた。実は、その前年の1889(明治22)年に、大阪の茶屋町にあった遊園地「有楽園」の敷地内に、高さが39mの「凌雲閣」が建設されていた。こちらは、9階建だったため、「キタの九階」と呼ばれた。視界を遮る高層ビルがなかったため、眺めは大阪市街地一円、さらには大阪湾や淡路島を見渡すことができたという。
「キタの九階」が完成する前年、高さ31mで5階建のパノラマタワー「眺望閣」が今宮にある遊園地「有宝地」内に建設され、「ミナミの五階」と呼ばれた。この二つは大盛況で、人気を競い合っていた。「キタの九階」の跡地は、後に梅田東小学校になった。現在、常翔学園 梅田キャンパス(仮称)が建設中。「キタの九階」の高さの3倍以上という地上22階、高さ125mの超高層のキャンパスが2016(平成28)年完成予定である。
『大坂全図』1863(文久3)年
古地図で巡る「江戸時代の大坂」
上方にある「御城」が大坂城。その周りに「ヤシキ」と書かれているのが、武家屋敷である。江戸と比べると、大坂は武士の人口比率が小さく、町人の居住部分が圧倒的に広い。西(この地図では下方)に至るほど堀が多く、商売のために水運がよく発達していたことを物語っている。中之島や堂島には「ヒロシマ」、「クルメ」、「タカマツ」のように蔵屋敷を置いた藩の名前が書かれている。道頓堀よりも右側の、後に「ミナミ」と呼ばれる地域はまだ開発が進んでおらず緑色のままである。赤い色は寺社の場所で、上の部分の上町台地や、特に四天王寺付近に多くの寺が集中している。

※「おおさか」を漢字で書くとき「大阪」と「大坂」の表記がある。江戸時代は、「大坂」と書かれること多かったが、大坂の「坂」の字が「土に反る」と読めるので縁起が悪いという理由で(他説あり)、明治時代以降「大阪」に統一された。本文中では、江戸時代以前は「大坂」、明治時代以降は「大阪」に便宜上統一した。
※企画制作協力/画像古地図提供 / 原島 広至

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