写真でひもとく街の成り立ち

このまちアーカイブス
大宮の歴史は「氷川神社」の門前町としてはじまり、江戸時代には中山道の宿場町として、また1885(明治18)年には鉄道駅が設置されたことにより、首都圏有数の産業・経済・文化の中枢を担う街として発展してきた。駅を中心とした商業エリアと「見沼代用水」の灌漑による農業の盛んな地域とが隣接する。自然に抱かれた都市空間は、いにしえより水に親しみ自然に恵まれていた地域であることが良くわかる。歴史をひもとくと、時代の移り変わりとともに変化した街の様子と、当時と変わらぬ生活の営みとが今なお共存する街の魅力に気づかされる。
大宮から世界へ発信される「BONSAI」の魅力

移住してくる盆栽業者。写真は昭和初期のもの。移住してくる盆栽業者。写真は昭和初期のもの。

「大宮盆栽村」が誕生してから3年後の1928(昭和3)年、「盆栽村組合」がつくられた。組合は、「盆栽を10鉢以上もつこと」、「二階建ては建てないこと」といった規約をつくり、全国から移住者を募ると、東京の盆栽業者を中心に、全国から20軒ほどが集まったという。その後、1940(昭和15)年に大宮市盆栽町となる頃には戸数60戸、人口は300人ほどの規模までになった。
この時期の、「大宮盆栽村」は、伝統を継ぐ地区としてだけではなく、環境が整備された住宅地として盆栽業者以外の人々も好んで移住するような地区でもあった。

1973(昭和48)年の「大宮盆栽村創設50周年記念陳列会」の様子。1973(昭和48)年の「大宮盆栽村創設50周年記念陳列会」の様子。

盆栽業者たちは、新設された「大宮公園」駅のホームに盆栽の陳列所を設けて利用者向けに鑑賞の機会を提供したり、開村から10年を迎えた1935(昭和10)年には「盆栽大交換会」と称した記念行事を開催し全国の盆栽業者約200名を大宮に招待したりと、積極的な取り組みが行われていた。
その後も、「東京オリンピック」や「大阪万博」の開催に合わせて「大宮盆栽村」の作品を出品することで、国内はもとより海外に向けた盆栽の普及にも貢献し、海外からの観光客やときには国賓も「大宮盆栽村」へ訪れるようになった。
昨今では「BONSAI」としてそのまま世界で通用するほどの認識の広まりを見せ、日本を代表する伝統文化の魅力が「大宮盆栽村」から世界に向けて日々発信されている。
2017(平成29)年には、第8回となる「世界盆栽大会」がさいたま市において開催されることが決定し、1989(平成元)年に旧大宮市で第1回が開催されて以来、28年ぶりとなる注目すべき出来事となるだろう。

地元有志による誘致運動が町の衰退を救った念願の「大宮」駅設置

1917(大正6)年頃の「大宮」駅1917(大正6)年頃の「大宮」駅

大宮の町は「氷川神社」の門前町としてはじまり、中山道の宿場町として発展、1869(明治2)年に大宮県が設置されると行政の中心地としても躍進する期待が高まった。
しかし同年9月には浦和県と改称、県庁も浦和に移された。また1883(明治16)年に日本初の私鉄として上野・熊谷間で開通した鉄道にも大宮には駅が設置されず、政治・経済ともに衰退する兆しが見られた。

1932(昭和7)年頃の「大宮操車場」。現在の「さいたまスーパーアリーナ」付近にあった。1932(昭和7)年頃の「大宮操車場」。現在の「さいたまスーパーアリーナ」付近にあった。

それを危惧した白井助七を中心とした街の有志は、駅の設置に必要な土地や資材の提供を申し出るとともに熱心な「大宮」駅設置運動を展開し、2年後の1885(明治18)年3月16日に念願の「大宮」駅が開設された。
鉄道駅の誕生により発展の基礎が築かれ、「東日本における北の玄関口」として発展し続ける「大宮」。その歴史を語るうえで地元有志による誘致活動が背景にあったことは忘れてはならない。白井助七はその後、1895(明治28)年に第3代大宮町長に就任し、今も名誉市民として市内の「鐘塚公園」に銅像が設置されている。

まちづくりに貢献した製糸会社の存在

「大宮高等学校」校内にある今井五六の銅像。さいたま市名誉市民としてもその功績を称えられている。「大宮高等学校」校内にある今井五六の銅像。さいたま市名誉市民としてもその功績を称えられている。

「大宮」駅の開設に伴い長野県から大宮に進出した製糸会社は、発展する大宮の中心的な産業の担い手として位置づけられ、工場主たちはその後の市政運営など、まちづくりの中心的な人物として大きな役割を担っていく。
「片倉大宮製糸所」の工場長を経て同社取締役に就任した今井五六は、1941(昭和16)年に大宮市の初代市長となり、「埼玉県立大宮高等学校」の前身のひとつ「片倉学園」となる学校への出資などを通じて教育振興にも取り組んだ。

1917(大正6)年頃の「片倉組大宮製糸所」1917(大正6)年頃の「片倉組大宮製糸所」

また「渡辺組大宮製糸所」を創業した渡辺綱治は、第6・8代与野町長を務め「日本赤十字社埼玉支部療院(現・さいたま赤十字病院)」の誘致などまちづくり運営に大きく貢献した。
製糸工場があった跡地は、大型の商業施設や公園として整備され生まれ変わり、現在もその面影を見ることができる。

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