写真でひもとく街の成り立ち

このまちアーカイブス
徳川家康が1603(慶長8)年に天下人となり、江戸城外濠から大川へ流れる川の上に一本の橋を渡した。その橋を中心として、様々な職業の人が集い、暖簾を掛けて腕を競い合った。また、その橋は諸国と江戸を結ぶ五街道の起点ともなり、たもとには新鮮な魚介が水揚げされ、賑やかな魚河岸が形成された。「将軍のお膝元」だった江戸時代から、国際社会に門戸を開いた明治以降まで、今昔写真で振り返る「日本橋」。変わりゆく時代の世相を映しつつ、絶えることない人の営みを伝えている。
飛脚の時代を経て 郵便・電信の拠点へ
歌川国輝による「東京各大区之内 日本橋電信局」。電信線と電信柱が描かれている。1869(明治2)年に横浜・築地間に敷かれた電信線が1872(明治5)年に延伸、日本橋の南東詰に電信局が開局された。
「金座」跡地に移転した「日本銀行」
外濠に臨む旧・本両替町の日本銀行社屋は1896(明治29)年に竣工。創業の地である日本橋箱崎町から同町への移転は「商業」「交通」「金融」の要所であり、外濠を挟んで大蔵省(現・財務省)にも近い地の利による。そこは江戸時代の金座役所の跡地でもあった。
「江戸名所図会 錦絵」に描かれた本問屋の賑わい
日本橋の通油町にあった、本問屋「鶴屋喜右衛門」の店先の様子である。芝居町として栄えた堺町を中心として、版元や文化人たちが集まり、江戸文化の発信地として発展していった。
久留米藩主有馬家が勧請した安産・子授けの神様「水天宮」
安産・子授けの神様として有名な「水天宮」。久留米藩主有馬家が国元の久留米から芝赤羽町の藩邸内に勧請して祀り、1871(明治4)年に日本橋蠣殻町に遷座した。三代歌川広重の浮世絵「東京名所之内 人形町通り水天宮」や、河竹黙阿弥の「水天宮利生深川」などのモチーフとしても取り上げられている。
歌川貞重「山王御祭礼図」(天保年間)
江戸を代表する祭のひとつである、日枝神社の「山王祭」。江戸城の中に神輿が入ることができる「天下祭」として街を彩った。2年に一度、神田明神の「神田祭」と交互に開催されており、双方の氏子域を有する日本橋界隈は祭の伝統を今も守り続けている。
「江戸切絵図で巡る日本橋界隈」
尾張屋清七「江戸切絵図」
(1849(嘉永2)年~1862(文久2)年 刊)
武家、町家、川・堀・海などが色分けされており、当時の「まちづくり」「都市計画」の様子を俯瞰して眺めることができる。切絵図上に「このまちアーカイブス」掲載スポットを記した。
有名呉服店が軒を連ねる様子が描かれた
「東都大伝馬街繁栄之図」
1843(天保14)年~1847(弘化4)年に描かれたとされる、歌川広重の「東都大伝馬街繁栄之図」。物流を担う伝馬役が多く住んでいたことから、木綿問屋街が形成され、江戸を代表する大店が店を構えた。
日本橋兜町に開業した「東京株式取引所」
今や世界屈指の「金融街」として知られる日本橋兜町。その起源の一つとなったのが1878(明治11)年の「東京株式取引所」設立だった。写真は1899(明治32)年に改築・竣工した本館の様子。1923(大正12)年の関東大震災で焼失するまで存在した。
明治・大正期を代表する出版社「大倉書店」
絵草紙屋の家に生まれた大倉孫兵衛は、ジャポニズムの隆盛を背景に1874(明治7)年、輸出向けの錦絵や美術書を発行する「錦栄堂」を日本橋西河岸で創業。のちに「大倉書店」と改名し、洋紙の輸入販売も手がけた。戦前の出版界では重要な役割を果たしたが、度重なる火災に遭ったことから戦後に閉店を余儀なくされた。
歌川広重「名所江戸百景 日本橋通一丁目略図」
(1858(安政5)年)
日本橋南詰から延びる江戸のメインストリート「通一丁目」。現在の中央通りである。江戸随一の賑わいを見せるこの界隈の地価は、当時日本でもトップクラスだったという。
歌川芳艶「新版御府内流行名物案内双六」(嘉永年間)
江戸で流行していた、名物を楽しむ絵双六。実際の店名が挙げられており、さながら「グルメガイド」の様相だ。ふりだしが「日本橋朝市」となっており、日本橋が当時の江戸の「食」を支えていたことが垣間見える。また、あがりは「山王御祭礼」であり、天下祭が江戸に住まう人々にとって特別な意味を持っていたことが分かる。

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