写真でひもとく街の成り立ち

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徳川家康が1603(慶長8)年に天下人となり、江戸城外濠から大川へ流れる川の上に一本の橋を渡した。その橋を中心として、様々な職業の人が集い、暖簾を掛けて腕を競い合った。また、その橋は諸国と江戸を結ぶ五街道の起点ともなり、たもとには新鮮な魚介が水揚げされ、賑やかな魚河岸が形成された。「将軍のお膝元」だった江戸時代から、国際社会に門戸を開いた明治以降まで、今昔写真で振り返る「日本橋」。変わりゆく時代の世相を映しつつ、絶えることない人の営みを伝えている。
東都の繁栄を見守る麒麟の像
それぞれに思い浮かべる「日本橋」の姿
徳川幕府の開府とともに、江戸城下の中心として創架された「日本橋」。記録から確認できる限り、過去19度の改架がなされて20代目となり、現在に至る。「日本橋」と聞いて思い浮かべる姿は、浮世絵に描かれた木造の反り橋か、現存する石造アーチ型の「日本橋」か。それぞれに思い浮かべる「日本橋」の姿がある。
たとえば、浮世絵のモチーフとして幾度となく描かれてきた「日本橋」。多くの作品に共通しているのは、「擬宝珠」と呼ばれる親柱の装飾が見られることだ。葱坊主のような独特のかたちは、葛飾北斎や歌川広重の絵を見るとぱっと目に入る。格式の高い橋だけに取り付けることが許されたもので、江戸では「日本橋」と「京橋」の親柱だけが擬宝珠を冠していた。 また、浮世絵の「日本橋」に特徴的なのは、背景に描かれた「富士山」と「江戸城」、棒手振が運ぶ「初鰹」、「人力車御免」の幟旗といった風物が配置されることであり、それらから「『日本橋』であること」が言わずと知れた。
一方、1911(明治44)年に完成した石造アーチ型の「日本橋」を見ると、和洋折衷の装飾が施されたことが特徴となっている。構造技術は西洋に倣う一方で、装飾は和の要素を取り込もうとした。具体的には、橋の東西中央に鎮座する麒麟の像、橋台に配置した獅子の像、街道の一里塚に見られる松と榎の装飾などだ。
さて、明治時代に入り、伝統的な木造反り橋から、和洋折衷の石造アーチ橋へと変わった「日本橋」だが、そのあいだに建設された1873(明治6)年竣工の「日本橋」も忘れてはいけないだろう。木造ではあったものの、もはや反り橋ではなかった。その平坦な姿はより合理的な交通を可能にし、一刻も早く西洋諸国に追いつこうとする明治日本の強い思いを象徴していたのかもしれない。
『江戸名所図会』より「日本橋魚市」(長谷川雪旦画)。
日本橋と魚河岸の切っても切れない結びつき
商いは人の集まるところに興る。「日本橋魚河岸」は将軍家への献上品の魚介の余りを「日本橋」のたもとで売りさばいたのが始まりという。「日本橋」は高札場が設けられた地点でもあり、五街道の起点でもあったことから、自然に人が多く集まった。
魚介の売買から始まって、その加工品が派生し、それらの食材を使った料理屋ができる。そのほかにも仕事上がりの仲買人を相手にした屋台や、市場で使う道具や雑貨の店も並んだ。そうして広がった「日本橋魚河岸」の繁盛ぶりは、「芝居町」「吉原」と並んで「一日千両」が動くと言われる江戸の名所となった。
明治の作家岡本綺堂が著した『夜の魚河岸』というエッセーで、宵過ぎの魚河岸に「鍋焼きうどん」、「おでん」などの屋台が並んで賑わう様子が描かれている。「宵越しの銭は持たぬ」という江戸っ子気質の描写に、改めて魚河岸が、江戸文化の象徴のひとつであったことに気づかされる。
日本橋周辺には、魚河岸に起源をもち、現在まで商いを続ける老舗が少なくない。鰹節の「にんべん」や海苔の「山本海苔店」はその代表格だ。
ほかにも魚河岸生まれの例をいくつか挙げると、魚河岸で売買される鮫を使って半ぺんを製造するようになった「神茂」、屋台の鮨屋として商いを始めた、日本橋室町一丁目の「蛇の市本店」、食事処「樋口屋」から始まり、食べきれなかった分を持ち帰り用として包んだことが好評を博して弁当をやるようになったという「弁松總本店」などがよく知られている。
「日本橋魚河岸」はかねてからの移転の議論もあり、関東大震災での被災をきっかけに築地へ移転したが、魚河岸の記憶はそのあともなお人々のあいだで大切に語り継がれている。
「日本橋」あっての「魚河岸」、「魚河岸」あっての「日本橋」。切っても切れない両者の結びつきが今の日本橋の個性をなしている。
三井陳列場側面来客出口の光景(1900(明治33)年)
「将軍のお膝元」日本橋の世相を彩った商人たち
「将軍のお膝元」として栄えた江戸時代の日本橋。世相を彩ったのは、何よりも商人たちの活躍ぶりだった。
日本橋の商人、伊勢松坂出身の三井高利は1673(延宝元)年、日本橋本町一丁目に「越後屋呉服店」を創業し、「現銀掛け値なし」、反物の「売り切り」といった独自の販売方法によって江戸随一の大店にのし上がった。さらに呉服店から両替商として事業を多角化していったことは有名だ。
「越後屋」は当時の商人にとって理想とされた「江戸店持京商人」のかたちをとって商いを伸ばしていった。「越後屋」に限らず、通一丁目の「白木屋」や本町四丁目の「伊豆蔵屋」など、当時の多くの呉服屋がそうした経営手法を選んだ。
ところで、「越後屋」の江戸進出に先立つこと67年前の1606(慶長11)年、伊勢出身の木綿商が大伝馬町へ多数出店した。いわゆる「伊勢商人」たちの江戸進出だ。日本橋に出店した呉服屋を見ると、「越後屋」を筆頭に、元禄時代の四大呉服店と呼ばれた「伊豆蔵屋」「大黒屋」「家城太郎次郎」は、みな「伊勢商人」だった。
もちろん、日本橋で活躍したのは「伊勢商人」だけではない。近江国から商圏を広げていった「近江商人」も、日本橋で多く活躍した人々だった。「日本橋西川」「白木屋」「髙島屋」といった老舗・大店は近江国にルーツをもつ企業だ。
時代は江戸から明治に移り、大店の呉服店は百貨店に鞍替えした。通一丁目の「白木屋」は姿を消したものの、「越後屋」から転じた「三越」や、昭和に入って通二丁目に出店した「髙島屋」は、今でも「商人の町」日本橋の顔として多くの人に親しまれている。
東京株式取引所の創設とともに造営された「兜神社」
金融街として歩み出した日本橋兜町
日本橋が金融の町としての表情をもつのは、外濠端の本両替町に幕府唯一の貨幣鋳造所である金座役所が存在し、その跡に日本銀行が建てられたことにも起因する。しかし、特色としてより鮮明になったのは、明治以降の資本主義経済における民間の動きによるところが大きい。
その背景には一人の人物がいる。旧幕時代に農民から役人に登用され、欧州を訪れて資本主義を学び、明治初期には大蔵官僚を務めたのち、自ら実業家に転身した渋沢栄一だ。
岩倉遣米使節団の一人として渡米した伊藤博文が、帰国後に大蔵少輔としてアメリカに倣った銀行制度の整備を建議。大蔵省出納係として官途にあった渋沢栄一が国立銀行条例を起草し、両替商の三井組と小野組をまとめ、1872(明治5)年、両組出資による第一国立銀行創設を実現した。同銀は日本橋兜町の海運橋のたもとで、竣工したばかりの海運橋三井組ハウスを社屋として創業した。
結果から言えば、国立銀行による日本の銀行制度は失敗に終わった。1888(明治21)年には日本銀行条例が施行され、国立銀行は紙幣発行権を失ったのだ。
一方、渋沢栄一は官僚として日本の発展を実現することに限界を感じ、1878(明治11)年、東京の財経人とともに日本橋兜町に東京株式取引所を設立した。日本橋兜町の金融街としての歩みは、まさにここから始まって今に至るのだ。
東京株式取引所の東側、日本橋川岸には1878(明治11)年に造営された「兜神社」がある。取引所関係者一同の信仰の象徴および鎮守として倉稲魂命を祀り、太政大臣三條實美の揮毫による御神号を飾っている。また、日本橋兜町の町名の由来とされる「兜岩」も境内に安置されている。

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